【6】花火を見に行こう
がたん、がたん。
県外に行くなんて初めてだ。
わたしは昔からずっと家にいたし。どこか遊び行くことなんて無かったし。きっと市内ですら知らないところばかり。
そんなわたしが、初めての旅行となれば、やっぱりわくわくせずにはいられない。何度も旅行雑誌を読み返し、頭の中で思い浮かべるのは抽象的な風景。けれどその風景は輝いていた。今にも弾けてしまいそうなほどに。
もちろん嬉しいのは旅行だからってだけじゃない。お姉ちゃんの横顔を見ると、心があったかくなる。きっとお姉ちゃんとなら楽しい。なんだって楽しい。だって、暗闇の中で棘にまみれた地面を這いずるようだったわたしの人生は、お姉ちゃんのおかげで花が咲き乱れた。
だから、お姉ちゃんといれば楽しい。旅行で知らない場所へ行くのも楽しい。お姉ちゃんと旅行なんてもっと楽しいに決まってる。
胸の何処かで鳴る不安の音は、聴かないようにした。
駅に降り立つと、まずその造りに驚いた。黒く塗られたマットな質感の木造。灯籠の形をしたLEDが照らす先へと、重い荷物を引きずるようにして進んでいく。改札を抜けるまで、もう少し。
お姉ちゃんに続いて、駅を出る。たくさんの人、家族連れにひとりの人に、カップルに中学生に。ここまで賑わっている場所に来るのは、きっと初めてだ。
それに、暑い。ものすごく暑い。少しずつ少しずつ、肌が焼かれていくみたいで。頭の中は、お姉ちゃんの白いきれいな肌の心配ばかり。
「んー、旅館のお迎えのバスが来るまでね、まだまだ時間あるみたいなの。そこの喫茶店でゆっくりしてよっか」
「うん、行こう、お姉ちゃん」
二人並んで、荷物抱えて、ガラス張りが眩しいカフェへと入る。とても気持ちの良い冷風が、汗ばんだ首筋を、頭を、髪の間を通り抜ける。思わず力が抜けてしまう。
二人がけのテーブル席に着いたところで、壁に貼られたポスターに気付く。会場は大きな川のそば、打ち上げ花火のイベント。黒い夜空に大きく煌めく花火の写真。
打ち上げ花火、わたしはちゃんと見たことがない。一駅隣で年に一度開催されているらしいけど、もちろん行く機会なんてない。家からじゃ建物に遮られて見えない。少し遠くから響く、どん、という音を部屋から聴いて、想像をしてみたけどよくわからなかった。
「楽しみだね、花火大会」
お姉ちゃんはわたしにメニューを渡しながら、同じポスターを眺めながらそう言った。
「お姉ちゃん、花火見たとこあるの?」
メニューに目を走らせながら、尋ねてみる。ええと、あれ。レアチーズケーキが食べたかったけれど、ここには置いてないみたい。
「うん、あるよ。生で見ると、やっぱりすごい迫力なの。いろんな色があって、いろんな形があって、感動しちゃうの」
「色、形……」
化学の教科書、はじめて打ち上げ花火の写真を見たのはそれが初めてだったか。炎色反応、だとかのページに、小さく載せられた花火の写真。使う材料で、燃えたときの色が変わる。ちょっと面白いな、なんて思って聞いていた。
形、形とはどんなものだろう。丸い大きな形、それしか見たことがない。想像はできないけれど、きっとそれは綺麗で、とっても素敵なもの。
メニューを一通り見て、注文を決める。以前お姉ちゃんが頼んでた、ウィンナーコーヒーというもの。クリームがたっぷり乗った、なんだか変な飲み物。お姉ちゃんの好きなものを分かってみたい、なんて。
しばらくして、駅の前の広場、小さなバスみたいな車が停まっていた。ドアのところに、わたし達が泊まる旅館の名前が書いてある。
「はい、じゃあお願いします」
重い荷物を抱えて乗り込んだわたし達は、他のお客さんがいることに気付いてお喋りはしなかった。
窓の外で流れていく景色はどこか古くさい町並み。木造のひっそりとした建物の間に、同じようにひっそりとしたお店が並ぶ。店先には観光客の人たちが集まっていて、お惣菜だったり、隣では小物だったり。なんだか高そうな扇子を見ている人も。
駅から旅館は結構遠いようで、暇を持て余したわたしは、ある考え事をしていた。
先日聞いたこと。お姉ちゃんの、名前。
後藤優。お姉ちゃんは確かにそういった。眠気と、それからお姉ちゃんの約束があって、疑問や不安はわたしの心に小さくとどまる程度ではあった。けれど。
分からなかった。どれだけ考えても、どうしてお姉ちゃんがわたしと同じ名前である理由なんて予想できなかった。
たまたま同姓同名の人間。未来のわたし自身。ウソをついてる。
予想を立てれば立てるほど、そもそもの根本ばかりに目がいく。お姉ちゃんは、いったいどこから来た何者なのかって。
ただ、覚えたお姉ちゃんへの違和感が。日常から外れた違和感が、いつまでも一緒にいたいと思うわたしの心をどこか揺さぶるのだ。なにか、なにか秘密がある。
そしてその秘密というのは、決して良いものじゃない。
ようやく到着した旅館は、思っていたよりも綺麗な建物だった。
和風の、この場所の景観に合う外見だけれど、屋根も壁も綺麗な色をしている。新しいもののようで、それでいてしっかりと磨かれているようで。
お部屋はもっと綺麗だ。明るい木でできたふすまや壁のふち。畳の色は爽やかな緑色をしていて、部屋中に香るい草の匂いを鼻いっぱいに吸い込んでは癒やされる。
お姉ちゃんがポットでお湯を沸かして、ルームサービスの緑茶を淹れてくれた。それから背もたれのついた座布団に座って。おまんじゅうの包を開けて。
旅行雑誌の、花火のページを開く。お姉ちゃんが指さしたのは、スケジュールと簡易的な地図。
「ここから歩いて、十五分くらいかぁ。七時からだから、あと二時間は暇だね。何しよっか」
「ええと……」
お姉ちゃんとのんびりお茶を飲んで、お話しをして。それだけでわたしは何時間でも過ごせる。でも、せっかく旅行に来たんだ。
お姉ちゃんだって、わたしとずっと話し続けてたら暇しちゃうかもしれない。だから言葉をいったん飲み込んで。
「お姉ちゃん、お風呂。露天風呂行ってみたい。ほら、汗かいちゃったし」
「賛成! この時間なら、まだ人も少ないだろうし。」
少しずつオレンジ色が染めていく夏の空。ぼんやりと眺めながら。お姉ちゃんと並ぶようにしてお湯に身体を溶かしていく。
手足が伸ばせるお風呂。これも生まれて初めてだ。わたしの肌をあたたかい感覚が覆って、嫌なものだとか汚いものだとか、ぜんぶ洗い流していってくれる気分。ああそうだ、雨に当たるときに似ている。
「お姉ちゃん、ありがとう。連れてきてくれてありがとう。わたし、初めてがいっぱい」
「優もありがとう。お姉ちゃんね、優と過ごせて幸せだよ」
お姉ちゃんの肩に。そのほんのりと熱を持って濡れた白い肌に、頭を預けてみる。
このひとときが、ずっと続いてほしいだなんて思った。ゆっくりゆっくりと、時間が流れていって、オレンジ色が広がったかと思うと、藍色がぽつりぽつりと垂らされていく。
二人だけの空間に、蝉の声がずっと響いていたことに、今初めて気がついた。
もうすぐ、あの空に花火が咲く。もっと濃紺に染まった空に、ぱぁって、色とりどりの花火が咲く。
きっとわたしはそれに心を奪われる。ふと横を見てみれば、お姉ちゃんがいる。それは幸せ。わたしだけの、かけがえのない幸せ。
さっきよりも更に広がる藍色を遠く見つめて、輝く花火を思い描いてみた。




