【5】胸騒ぎを解いて
4月の半ば。数学が苦手なのに、わたしは理系を選択した。
わたしの苦手な、とはいっても得意な人なんていないけれど、特に苦手な人達の大半は文系のクラスへ行った。理由はそれだけ。
化学も苦手だ。生物はまだましな方。英語もまし。社会科はなにを選ぶか決まらない。国語は得意な方だ。
少し心が楽になれば、苦手科目だってがんばれるだろう。そんなふうに思っていた。
春に下した自分の選択を後悔する。後悔し終わったので今度は式を綴る。計算ミスがなければ、この問題の道筋は1個だけ。けれどそれが時間もかかるし頭もこんがらがる。数式に情緒を感じることのできる人間だったら、きっとこれも楽しいのだろうか。
「優。がんばりやさんなのは良いことだけど、適度に休憩もしてね?」
お姉ちゃんがお盆を持ったまま振り返って、教科書と問題集の広がったちゃぶ台の側に座る。
ことりと置いてくれた麦茶には氷がたくさん入っていて、結露をまとって誘惑してくる。
「雨、やまないね」
窓の外を眺めながら、お姉ちゃんはつぶやいた。どこか残念そうな声色は、きっと洗濯物が干せないだとか、食材の買い出しに行けないだとか、そんな思いがあるんだと無意識に思う。
「うん、そうだね」
なんの面白みもない相槌をする。そうだ、お姉ちゃんと初めて出会った日も雨だった。強さは同じくらいだろうか。窓をぽつぽつと打つ音が、やんわりとわたしの心を落ち着ける。
「優、夜ご飯なにがいい?」
「お姉ちゃんの食べたいもの」
「ふふっ、優はそればっかり。じゃあ、夏野菜のカレーにしよっか」
他愛のない会話を交えながら、そういえば、と思い出す。学期末の休校ばかりで実感が無いけれど、今日からわたしは夏休みだ。夏休みということは、学校に行かなくていい。ずっと家にいていい。それはつまり、ずっとお姉ちゃんと一緒。
自然と広角が上がってしまう。ああ、素敵だなぁ。お姉ちゃんと一緒にいると、これ以上となく心が落ち着く。きっと最高の夏が来る、忘れられない夏が来る。確信していた。
それはきっと、来年も。再来年も。わたしはお姉ちゃんと一緒に。
なのかな。
わたしは、本当にお姉ちゃんと一緒にいられるのかな。いつまでも、いつまでも。
今まで、幸せが続いたことなんて一度もなかった。いつしか、期待することだって嫌になってしまった。どうせわたしは辛くなる。また暗い道を一人きりで、裸足で歩いていかないといけない。なら最初から、希望を持たなければいい。
そうは思っても、割り切れなくて。やっぱり心のどこかで、幸せできらきらした、素敵な日々というのを、思い焦がれてしまっていたんだ。
そんな中で出会ったのが、お姉ちゃん。
お姉ちゃんはちゃぶ台の側に腰掛けて、レシピ本を読み込んでいる。ふわりとした作りのサマーニットに、エプロンを着けたまま。
正直、見ているだけで癒やされてしまう。ふいに湧いた不安だって。お姉ちゃんにすぐ溶かされてしまう。わたしはそれだけ、お姉ちゃんが大好きだ。
もしも別れのときがきてしまったのなら、わたしはどうなるのだろう。どうなってしまうだろう。
きっと、自分から独り立ちを決めて、自分の意思で離れることができたんなら、なんの問題もないだろう。
でも、そんなことする自信はない。それで今以上に幸せになれる保証なんてどこにもない。
もう、一人ぼっちの暗い夜には戻りたくないよ。
ああ、疲れた。手首も痛いが、それ以上に目もしんどい。遠くのものがぼやけて見える。
気を抜いた瞬間、脱力してぼけっとしてしまう。けれど、こうして一生懸命自習できるのは、他でもないお姉ちゃんのお陰だ。
学校から帰ると、心がぼろぼろになっている。虫に食われたように穴だらけ。錆びついた歯車のようにガタついて、何もできなくなる。勉強だけじゃない、ご飯を食べるのもお風呂に入るのも、寝ることすらしようとは思えなくなる。ただただ、部屋に縮こまって朝が来るのを怯えるだけ。
朝が来るまでの時間が少しでも長く感じたかったから、よく数字を数えていた。いつしか落ちるように寝てしまい、また朝を迎えては憂鬱になる。
そんな以前の毎日に比べたら、この勉強の疲れだって、間違いなく幸せなんだ。心の底からそう思えた。
「優、がんばれ〜」
両手でファイトとサインを送るお姉ちゃんは、部屋にカレーの良い香りを漂わせ始めた。お腹が空いてきて、せめてあと1ページ分の気力が湧いてくる。
生きた心地がする、なんて言ったら大げさかな。
「……優。今日、優は勉強すごく頑張ったから、なにかご褒美あげる」
エプロン姿のまま、お姉ちゃんはわたしに近付いてそう言った。
ご褒美。ご褒美なんて、毎日もらってる。むしろ毎日がご褒美だ。こんなわたしが、こんな幸せになれてることが、ご褒美なんだ。なにもお姉ちゃんにはねだれない。これ以上幸せになったら、幸せで破裂しちゃう。
悩んで黙ってしまったわたしを見て、お姉ちゃんは気を利かせてくれたのかもしれない。
「お姉ちゃんの秘密、何か一個教えてあげる」
はっと驚いた気持ちだった。そうだ、お姉ちゃんのこと、わたしはまだ何も知らないんだ。
出会ったばかりの頃は何も教えてくれなかったお姉ちゃん。今になってこう提案してくれるというのは、心変わりなのか。それとも、なにか思うところがあったのか。それはわたしにも分からない、けれど。
きっと、お姉ちゃんとの関係が少し変わるきっかけなのかもしれない。そう予感させた。
「お姉ちゃんの、秘密……」
知りたいことはいっぱいある。どこから来たのか、どうやって来たのか、そもそも誰で、どうして。
こんがらがる頭を整理するのは諦めた。わたしはお姉ちゃんともっと仲良くなりたい。お姉ちゃんを知りたい。なら、知りたいことは。
「お姉ちゃんの、名前。教えてほしいな」
お姉ちゃんはにこりと微笑んだ。その直前に、どこか寂しげな顔をした、気がした。
扇風機の後ろに保冷剤を置いたら、扇風機の吐き出す風が少しだけ冷たくなる。タオルケット越しに頼りない冷風を感じながら、いつもみたいにお姉ちゃんに包まれながら眠ろうとしていた。
お腹の満腹感が心地よくて、眠気が来て、それから。
お姉ちゃんの声が、優しくわたしに届いた。
「お姉ちゃんの、名前ね。優、なんだよ。後藤、優」
「えっ……」
それは、紛れもないわたしの名前。
心臓がどくんと跳ね上がって、けれど、何もわからないことを怖いとすら思った。分からない。お姉ちゃん、お姉ちゃんはいったい誰なの。
「そのうち、ちゃんと教えてあげるからね。ぜんぶ、ぜんぶ」
分からなさ過ぎて、あまりにも分からないから、そのときが来るのを待つことにした。きっと、今は気にしなくていい。眠気が、わたしの思考を遮る。
後藤、優。優なんて名前は、わたしなんかよりずっとお姉ちゃんにぴったりだな。なんて思ったのが最後、心地の良いお姉ちゃんの感触に溶けてしまうように、意識は微睡んでいった。




