【4】甘い期待
カランとレトロな扉を開くと、店内は外観から容易に想像のつく、なんの意外性もない空間だった。
シックなダークブラウンの、艶がかった木目の机や椅子にカウンター。手頃なサイズのシャンデリア風の証明に、年季の入った道具たち。客層はやはりある程度の大人が多いように見えた。
お姉ちゃんは角っこのテーブル席へわたしを連れて行き、向かい合うように座るとその顔をニコニコとさせる。
端に置かれた手書きのメニュー、お姉ちゃんは軽く目を通した後に、それをわたしに手渡す。
「お姉ちゃんはケーキセットでモンブランとウインナーコーヒーにするね、もちろん優も一緒に食べようね」
「え、ええっと」
コーヒーの種類なんて分からない。
「んーとね、じゃあ」
お姉ちゃんはひょいとメニューを取り上げて、そのまま店員さんを呼んだ。ケーキセットを二つ、わたしの飲み物はホットココア、ケーキはレアチーズに決められてしまった。どちらも嫌いではない、むしろ好きなので少し楽しみになる。というかお姉ちゃんはそこまでわたしの好みを把握してるのか。
そもそも、お姉ちゃんなんでわたしを連れ出したんだったか。
今日はよく晴れた日で、学校から帰るとワイシャツは汗に濡れてじめついていた。部屋の湿気もひどく、とてもじゃないが気が休まらない。
それはお姉ちゃんも同じようで、薄手の白いワンピースを着て、うちわで首元をぱたぱたとしていた。ロングヘアということもあり、かなり汗ばんでいたみたいだった。
「部屋むしむしするし、お出かけしちゃおうよ、優」
「えっ、え……お出かけ」
「大丈夫大丈夫。優のクラスメイトの子とかは、あんまり来ないようなお店だから」
「どんなところ行くの?」
「ふふふ、おしゃれなカフェ!」
汗のついた制服を着替えて、それなりに小奇麗な格好選ぶ。薄い生地のロングスカートに、半袖のサマーニットを着た。少しでもわたしだって分からないように、チェックのキャスケット帽を深めに被った。全部、お姉ちゃんが新しく買ってきてくれたもの。
そのまま連れ出されたわたしは、久しぶりのお出かけに、沢山の不安と一握りのわくわくがあったように思えた。
道の途中、お姉ちゃんはわたしの手を握りながら、優しげに語りかけてきたんだったか。
「無理矢理ひっぱってきちゃってごめんね、嫌だった?」
「ううん、そんなことは、ないです」
「そっか、良かったぁ」
二人並んで歩く街道。夏の景色は彩度が高いから、ぎらついて目に刺さる。だから足元ばかり見て、綺麗にならんだアースカラーのタイルを目でなぞるように追って手持ち無沙汰。
ショッピングモールから伸びるお店の並びを、手を引かれるがままに右へ左へ。
「優はきっと、お出かけするの自体は嫌いじゃないと思うの」
「えっ……」
お姉ちゃんの言葉を、自分の中で考えてみる。どうなんだろう。
「学校のみんなが怖い、人が怖い、そういうのがジャマしてるだけ。きっと行きたいところも、いっぱいあるんじゃないかな」
「……」
行きたいところ。ぼんやりとした春空のさくら公園。小学校以来一度も行っていない市民プール。本で読んだ紅葉のきれいな観光地。雪のふる白いクリスマス。美味しいもの。きれいなもの。かわいいもの。
思い浮かんだら止まらない。夢の中のわたしは、きらきら輝く素敵な世界をステップ混じりに歩く。鼻歌なんか歌っちゃって。おしゃれなお洋服なんか着ちゃって。それで、その右手には、お姉ちゃんの手が握られてて。
「優はね、どこへでも行けるの」
ふいに現実に帰る、なんて言葉は似合わない。ゆっくりゆっくりと、だった。
お姉ちゃんはわたしの手をまた握り直して、続けた。
「お金とかパスポートとか必要かもだけど、優はどこへでも行けるの。誰もだめなんて言わない。好きな場所に行って、好きなもの食べて、好きなものを見るの」
「ね、お出かけは怖くないでしょう?」
一瞬、胸の奥と指先が切なく締め付けられたように思えて、けれどすぐに、あたたかくなった。
運ばれてきたケーキは、なんだか地味な、素朴な外見。真っ白でまるい、上に一つブルーベリーの果実が乗った普通のレアチーズケーキ。ココアは少しクリームが乗っかっていて、ふわふわと湯気を立てる。
お姉ちゃんの前にあるモンブランもどこかシンプルな佇まい。ぼくは飾らない、飾らない良さがあるんだぞって言ってくるみたいに思えた。コーヒーと思わしきカップにはわたしのココアよりも多いクリームが乗っている。いったいどのあたりがウィンナーなんだろう。
「いただきます」
「いただきます」
ケーキを口に運ぶと、舌の上で甘さがほどけた。ほんの少しの酸味が、後から効いてくる。おいしい、こんなに美味しいケーキ、食べたのは初めて。
「ん、おいしい! ほら、優も。あーん」
「えっ……」
お姉ちゃんにはもう少し、ひと目をはばかるということをしてもらいたい。けれど、きっとモンブランもおいしいはず。すごくすごくおいしいはず。そう考えるともちろん食べてみたくなる。さらに、甘いもので心が絆されてしまったからか、わたしの中の素直な気持ちが顔を出してしまった。もっとお姉ちゃんに甘えたい。
差し出されたフォークに乗った、大きめのモンブランひとかけら。口に入れると、まろやかな口当たりと栗の風味が広がる。初めて、初めて食べた。
「あの、お姉ちゃん……ありがとう」
「いいのいいの。夏の間、もっと一緒に色んなところ行こうね。今までの優の苦労と差し引いてもおつりが来るぐらい、楽しいことしようね」
屈託のない、女神さまみたいな笑顔。少しして、色んなところ、ってどんな場所だろう。なんて妄想してしまう。でもきっと、ううん、絶対。お姉ちゃんとならどこでも楽しい。
「……あの、じゃあ。よろしく……お願いします」
溢れそうになった嬉しさを堪えようとしたら、ふいに敬語が飛び出た。隠すようにホットココアを飲んでみたら、溶けてしまうような甘さにびっくりした。
蝉の鳴き声が、まだあまりうるさくないことに違和感。夕方が始まろうとしていても、空がペールオレンジに染まって、彩度はそのままに薄く柿色のフィルターがかかった景色以外は日中と変わらない。
あれからいろんなお話しをした。お姉ちゃんは、どんな悩みにも不安にも、一緒になって考えてくれた。わたしの為に、わたしのことを思って。わたしのことを心配してくれて。
お姉ちゃんと繋いだ手が、少し汗ばんで湿気を感じる。けれど、それすら心地が良い。
「でも優、夏の間は勉強もだよ? お姉ちゃんもサポートいっぱいするから、がんばろうね」
「うん、がんばる」
子どもみたいな返答だと自分でも思った。
きっと、こんなにもお姉ちゃんといると安心するのも、暖かく感じるのも、幸せって思えるのも。わたしがお姉ちゃんを好きだからなんだ。
お母さん、先生、学校のみんな。わたしが会ったことのある人達の中で、こんな気持ちにしてくれる人はいなかった。みんなみんな怖かった。ただただ一人でいられる時間が恋しくて仕方なかった。
でも、お姉ちゃんと一緒にいる時間はもっと欲しい。もっともっと欲しい。そう思うと、明日も明後日もお姉ちゃんといられることがどこか夢のようにも思えた。
もしも夢なのなら。もしもこれが夢なのなら、わたしはどうなってしまうんだろう。
繋いだ手の影二つが揺れるたびに、そんな不安をかき消していった。




