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【3】沈み込んでしまう前に

 足が地面に吸い込まれる。上へ行くため力を込めてみると、さらに地面が溶け出した。転ぶようにして身体が沈む。


 息ができない。喉の奥まで生暖かい異物感で満たされて、その苦しさに悶えようとすると更に沈んだ。


 必死の思いで助けを求めた。声は出ないままに、喉だけが揺れる。それでもずっと叫ぼうと力を込める。すると、わたしの身体がただ沈んでいるのではなく、何か冷たくて黒い、人の手のような作り物で押さえつけられているのだと分かった。


 振りほどこうと身をよじらせると、腕に掴まれた身体に激痛が走り、あたりを赤く染めていく。やがて喉にも鉄の味が染み付いて、吐き出そうとすると涙だけが溢れた。


 いよいよ死を覚悟したのに、なぜか意識だけははっきりとしている。狭まっていく視界は、その黒すらもしっかりと目に映る。目を閉じてもなお、その光景はまぶたの裏で続いていた。





 目を覚ましたわたしは、その喉の異物感が吐瀉物だったと気付いた。そしてすぐにむせて、吐き出して喘いだ。


 ぼろぼろと涙が溢れては、シーツに染みを作る。口に中の残留物を吐き出すたび、涙はどんどん溢れていく、流れていく。


 少し落ち着いたところで、ようやくわたしの左手が、お姉ちゃんに握られていることに気付いた。


「優、優。だいじょうぶ、深呼吸して、だいじょうぶ」


 お姉ちゃんは、その両手でわたしの左手をしっかりと握っていた。わずかに震えていた。


「辛かったよね、苦しかったよね」


 お姉ちゃんはわたしの左手ごと、わたしの身体をぐいと引き寄せる。柔らかな胸に顔が埋もれ、お姉ちゃんの乱れた呼吸を感じる。頭のてっぺんに、雫が落ちる感触がした。お姉ちゃんも泣いているの、どうして。


 ようやくえずき終わって、壁の時計を見やると既に午前二時を回る頃だった。


 こんなふうに、得体のしれない悪夢を見ながら嘔吐する経験は初めてじゃない。いつも忘れた頃に起こる。毎度夢の内容は混沌としていて、現実での嫌なことぜんぶを混ぜ合わせたと言われればすぐ納得の出来るようなものだ。


 でも、そんな夜に誰かが側にいてくれるのは初めてだった。


「服、洋服、汚しちゃった。ごめんなさい、ごめんなさい」


 お姉ちゃんは何も言わないまま、わたしをもっと強く抱き締めた。鼻を刺す吐瀉物の臭いに、ふんわりとした優しい花の香りが被さった。






 服を着替えて、布団を変えて、寝直す準備が整ったところでお湯が湧き終わった。お姉ちゃんはわたしに紅茶を淹れてくれると、優しげな伏せ目がちのままに話し始めた。


「優、何か怖い思いでもした? 誰かに、嫌なこと言われたりした?」


「……してないと言えば、嘘になります」


 怖い。毎日が怖い。人が怖い。学校が怖い。朝が来るのが怖い。思い当たることがありすぎて、申し訳ない気持ちにすらなった。


 息苦しくて、体中が痛くて、普通に過ごすだけで精神を擦り減らしている自分があまりにも情けなくて。気付けば私はまた泣いて、浮かんだことぜんぶをお姉ちゃんに伝えていた。時折漏れる涙声が、余計に呼吸を苦しめた。


 お姉ちゃんはわたしの話す内容をただただ聞いていてくれた。否定もせず、肯定もせず、今にも溢れそうな優しさを目にためて、聞いてくれた。


 話し終わる頃には、声も涙も枯れていた。


 しばらくして、お姉ちゃんは聞いてきた。


「優は、優のこと好き?」


「……大嫌い」


「お姉ちゃんは優のこと大好きだよ」


 お姉ちゃんは更に続けた。


「自分が嫌で仕方なくて、それが辛くて。毎日心がぼろぼろになっちゃってる。だから、何にも楽しくないんだよね」


 ただ黙って、頷いていた。


 そうだわたしは、自信がない。自己肯定なんてできない。だから人が怖い。目が怖い。何をするのも怖くて仕方がない。泣きそうになりながら、生きてる。


 弱っちい。






「明日から、お姉ちゃんが優のことたくさん褒めてあげる。たくさん好きって言ってあげる。受け入れてあげる」


「えっ……」


 布団の中。微睡みかけたわたしの頭を撫でながら。


「優がね、優のこと好きになれるくらい、お姉ちゃんが優を褒めてあげるの」


「……」


 底無しに優しいお姉ちゃんが、そんなふうにしてくれることに一切の違和感は無かった。けれど、きっと弱いわたしはその優しさに依存しきってしまう。


 それはとても恐ろしいこと。


 そんな不安すらも、察してくれたかのように。


「だから、優は毎日がんばったって言えることをお姉ちゃんに教えて欲しいの。ちっちゃいことでいい、くだらないことでいい、最低一個、持って帰ってきて」

 

「そしたらお姉ちゃんが、あふれちゃうほど褒め尽くすから、ね?」


 また、わたしは泣いていて。


 朝が来るのが、少しだけ、ちょっとだけ怖くなくなった、気がした。


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