【2】ちょっとだけ拠り所
周りに誰もいないことを確認すると、鼻歌交じりにスキップでもしてみる。
週末が始まる。髪を掴まれ、むりやり顔を水に沈められたような、痛くて苦しい学校生活から距離を置けるわたしの猶予。
けれど、今までとは違う。
今わたしの家にはお姉ちゃんがいる。いや、お姉ちゃんなのかも怪しい。身分証明書くらい見せてと頼んだが、持っていないの一点張り。戸籍すらないような口ぶりだった。
そんな得体のしれない人間が家にいるのに、わたしはどこか安心感を覚えてしまう。だって、あのお姉ちゃんはわたしを愛してくれる。好きでいてくれる。認めて褒めて、受け入れてくれる。
ぜんぶぜんぶ初めての体験だった。ああやっぱり、こんなにも気持ちの良いことだったんだね。
「だからぁ、お姉ちゃんはお姉ちゃんなの。名前もないの」
「いやいや、名前くらいありますよね、普通に考えて」
「お姉ちゃん、特別なお姉ちゃんですから」
お姉ちゃんは何故か自慢げにピースを作る。
「特別というか、普通じゃないのは知ってますよ。でも、名前も戸籍もないって……これまでどうしてたんですか」
「これまでかぁ、なんにも覚えてないかな」
「いや覚えてないって……」
このお姉ちゃんの言うことは、どこまで本当かも分からない。素性を探ろうとすると、のらりくらりと躱す。そして、可愛らしく、どちらかというとあざとく笑う。
「でね、明日の晩ごはんなんだけど、せっかくだし一緒に食べに行こうよ。優の好きなもので良いから」
「えっ、いや、あの……」
申し訳ないけど、休日にクラスメイトにでも出くわしたらと思うと気が気じゃない。出くわさずとも一方的に見つかるかも知れない。嫌。怖い。
「休日は、出かけたくない、です……」
「そっか、無理言ってごめんね。明日も美味しいご飯作るからね、楽しみにしててね」
お姉ちゃんは優しい。それこそ怖くなるくらいに優しい。わたしの思っていることを何でも察したかのように、何も詮索しない。ただただ受け入れてくれる。
今まで会ってきた色んな人間より、一緒にいて心地が良い。
たとえお姉ちゃんの正体が悪いものでも、この心地良さがわたしを安心感に縛り付ける。お姉ちゃんに裏なんてないと根拠もなく確信させる。
しょうがない。わたしはずっと、寂しかったんだから。自分に言い訳、ずっとしてきたクソみたいな習慣。
干したお布団はふかふかで、お日様の香りがする。このお日様の香りの正体は、ダニの死体でもなんでもなく、油分が分解されたものなんだと。
一緒の布団、隣にいるお姉ちゃんはわたしのどんなくだらない話も楽しそうに聞いてくれる。話すことが無くなれば、色々な話をしてくれる。残念ながら、お姉ちゃんの素性だけは聞き出せないのだけれど。
「ねぇねぇ優。お姉ちゃんね、明日お洋服見に行きたいの。それでね、優の服も見てこようと思うんだけど、どんなのが好きかな」
「ええと、わたしですか。その、洋服とか気にしたことぜんぜん無くて……」
「じゃあ、お姉ちゃんのセンスで選んできても良いかな」
「あ、はい。ありがとうございます……でも、そこまでしてもらうのは申し訳ないですから」
「もう、そろそろ気遣わなくていいのにぃ」
「いえ、そうは言っても……」
「それに優。お姉ちゃんのこと、まだ一度もお姉ちゃんって呼んでない」
わざとらしい不機嫌な声色だ。どうしてもっと甘えてくれないの、そんな心の声が聞こえた気がした。でも冷静になって考えてみると。やっぱりおかしい。
ある日突然現れた自称お姉ちゃんを、すぐにでもお姉ちゃんと受け入れられるほどわたしは柔軟じゃない。頭で反芻してはいるが、実際かなり心を許している。誰かもわからないこの人に、あたたかい日常のそれを求めて帰路に着いていたわたしがいる。今更、戻れない気がしていた。
だからこそ、
「……お、お姉ちゃん」
「ふふふ、ふふふっ、優かわいい」
なんでか紅くなった顔を隠そうと、気休め程度に布団にうずめたその頭を、お姉ちゃんは柔らかな手付きで撫でてくる。
撫でられることなんて、これも初めて。
ただただ気持ちが良い。このまま溶けてしまいそう、なんて思うくらいに気持ちが良い。
お姉ちゃんが手を動かすたび、女の子らしい香りが鼻をくすぐった。




