【1】どちら様ですか
傘をさしているのに、足元は水浸しだ。靴下は歩くたび湿った感触で、生ぬるい雨水が足の指の隙間に入ってくる。プリーツのスカートも、薄暗い空の下で分かるくらいに染みを作っている。
不快、だけれども嫌いではない。雨は好き。できることなら、嫌なこと全部に降り続いた末に溝へと流してくれないか、なんて思う。学校も人間も、わたし自身もだ。
赤信号。少し遠くに住んでるアパートが見える。家に帰れば安心、なんてことはない。どうせ明日も学校だ。明後日には体育がある。みんなの前で労力を使って足を引っ張り醜態をさらし恨まれる二時間だ。水たまりでタイヤを滑らせて、車の一つでも突っ込んできて、運良く頭とか心臓だとかを潰して、楽にしてくれないか、なんて妄想にふける。登下校中の、一日二回の習慣。
雨に濡れたドアを開ける。家には誰も居ない。
今日の残り時間、明日の朝が来てしまうまでの猶予になにをしよう。何か食べたい気分でもない、趣味なんてない、またいつもどおりぼうっと過ごせればいい。そう思って、誰も居ないはずの玄関へ上がる、と。
肉じゃがの、良い匂いがした。
「あら、お帰りなさい。って、足びしょびしょになってるよ。待っててね、今タオル持ってくるからね……」
頭が真っ白になって、次に浮かんだのは、部屋を間違えたという思考。
それすらも、手に握った鍵の感触がかき消した。この人は誰なの、どうしてわたしの部屋にいるの。夕食の良い香りが、気持ち悪いくらいの異物感に思えておかしくなりそうだ。
「はい、靴脱いで。靴下はすぐ洗えるけど、靴は明日も履くもんね。新聞紙詰めとけば間に合うかなぁ」
ようやく、震えながら声が出た。
「あの、あの。どちらさま、ですか。なんでわたしの部屋にいるんですか。不法侵入ですか」
「もぅ、不法侵入とはなんですか。細かいんだからぁ」
「本当にっ、誰なんですか。どう考えたって、不法侵入じゃないですか、警察よびますよ。本当に……」
「お姉ちゃんですよ」
何を言っているんだろう、この人は。
「わたしは優の、お姉ちゃんなんですよ。ね、信じて」
いたずらっぽく舌を出して、首を傾げる目の前のお姉さん。その顔付きが。どこかわたしに似ているような、気がした。
「どうだったかな、お料理ぜんぜんしたことないからレシピ本見ながらでね。でもこのお家ぜんぜん材料無くてびっくりしちゃった。駄目よ、ちゃんとご飯食べないと。優は成長期なんだから」
「は、はぁ……」
結局、お姉ちゃんを名乗る謎の女性に、夕食までご馳走させられた。我ながら不用心だ、勝手に家に入った見ず知らずの人の手料理を食べるなんて。
それにソファーに置いていた寝間着もきれいに畳まれ、ホコリをかぶった部屋は見違えるように綺麗。
家政婦さん。仕事で会えない母が、わたしの暮らしぶりを不安に思って頼んだ家政婦さんだ。お姉ちゃんを名乗るのはそういうオプション。自分の中で一番納得できる解釈だ。そうに違いない。
「むぅ、優さっきからぜんぜんお姉ちゃんと話してくれないね」
「だから、その。お姉ちゃん、ってなんなんですか。わたしに姉はいません。兄弟も姉妹もいないんです。誰なんですか、あなた」
「いるの、本当はいるの。それで、いま優の目の前にいるのがお姉ちゃんなの。そろそろ信じてよ、ね」
仮に、生き別れた姉がいたのなら。そんな妄想をしたことはある。辛くて眠りたくない夜に、布団に潜ってする妄想シチュエーションのレパートリーのひとつだ。
その時思い浮かべる理想の姉の姿というのは、艷やかな黒髪ロングに優しげな表情に声。料理が美味しくて家事も完璧。そしてわたしを好きでいてくれる。認めて褒めて愛してくれる。愛してくれる。そう、愛してくれる人。
「どうしたの優、'ぼぅっとしてるよ。そっか、今日も疲れたんだね。毎日毎日お疲れさま。お姉ちゃんね、がんばり屋さんな優のこと大好きだよ」
奇妙な話だ。目の前の自称お姉ちゃんは、思い描く理想のお姉ちゃんにそっくりなんだから。
いつもの朝と同じように、家を出た。
ほんの少し曇った空、まだ残る水たまり。お弁当一個分いつもより重い鞄。なのにわたしの足取りは少しだけ軽かった。
帰ったら、お姉ちゃんがいる。おかしいことだ。怖いと言ってもいい。なのに何故だか、嬉しくなってしまう自分がいた。誰かといるってあたたかいんだ。
不審がるべきわたしの理性は、見えない力で抑え込まれたようだった。
今日の晩ごはんはなんだろう。




