【10】マリンライン
「お、お姉ちゃん、これやっぱり変だって……」
「似合ってるよ、すっごい似合ってる。あぁ、カメラ持ってくればよかったなぁ」
「お姉ちゃん……」
白いふわふわのフリル。少し大きなリボンまで付いて、ワンピースみたいなシルエット。
やっぱり、わたしが着るには可愛すぎる。いくらなんでも可愛すぎる。けれど足取りは不思議と軽く、胸の奥で変なわくわくが騒ぎ立てているのを感じて。
遠くに水平線の煌めく海辺、わたしは麦わら帽子の影で笑ってみた。
ショッピングモールは夏一色。お店じゃないフロアのところにまで水着が売られていて、鮮やかな色彩に目を奪われてしまう。
水色、ピンク色、レモンみたいな黄色。ああいう淡い色は可愛いな、そんなに派手じゃないし。でもあの真っ赤なやつとか、黒くて細いやつとか、どんな人が着るんだろう。想像ができない。
お姉ちゃんに手を引かれて着いたのは、水着の並んだフロアの中でも一番広い場所。
「じゃあ、よろしくね優。お姉ちゃんも、とびきり可愛いの探しちゃうから!」
「あっ、あんまり派手なのはやめてね」
「わかってるわかってる」
ゼラニウムの前で結んだ約束。わたしがお姉ちゃんの水着を選んで、お姉ちゃんがわたしの水着を選ぶ。一週間ほど前の、大切な記憶。
正直、ちっちゃな後悔を感じている。
だってお姉ちゃんが選ぶのは、すごく可愛かったり、女の子らしかったり。お姉ちゃんみたいにわたしは可愛くないから、なるべく地味なのがいいな。って、そんな思いは汲み取ってくれないらしい。
いや、汲み取ってくれてはいるのかな。あえて無視してるだけで。
「ねぇねぇ、どうかな優。ピンク色でパレオですっごく可愛くないかな?」
「あっ、ええと。可愛いけど、可愛すぎるっていうか……」
「優は可愛いから似合うよ?」
「えっ、あっ……」
お姉ちゃんは急にこういうことを言う。
わたしだって可愛い水着を着たくない訳じゃない。ふわふわしてキラキラしたそのデザインには惚れ惚れしてしまう。
けれども、お姉ちゃんがいくら褒めてくれようとわたしは可愛くない。だから、ミスマッチ。似合わない。そうなると、せっかくの可愛い水着がかわいそうで仕方がなくなる。もっと可愛い人に着てもらえたら幸せだったのにね、って。
それだけじゃない。海にはたくさん人がいるから、とびきり可愛い水着なんかだと悪目立ちしてしまうかもしれない。それじゃあせっかくの楽しい時間が怖くなって、台無しになってしまう。
だから、地味で目立たないの。それがわたしにはぴったりだって、今までそう思ってた。はずなのに。
「んー、これもだめかぁ」
棚に水着を戻すお姉ちゃん。
お姉ちゃんのくれる経験は素敵なものばかりだ。怖いと思っていたことが大丈夫になって、初めての体験はかけがえのない思い出になって。だから、きっと今回も同じように。
わたしは海で、とびきり可愛い水着を纏える。
そんな期待がわたしを動かしてしまう。
「あっ、これどうかな。絶対似合う、優に絶対似合うよ!」
白いビキニ。フリルはふわふわと羽のよう、スカートのような形をして、少し大きなリボンがひとつ。柔らかく広がるシルエットは、夏の空によく会うサマードレスみたいで。
わたしは一瞬、目を奪われた。
もちろんお姉ちゃんは、それを見逃さない。
「決定ね?」
「……うん、うん。これがいい。けど、似合うかな」
これがいい。これを着てみたい。お姉ちゃんにすっかり開かれてしまったわたしの心は、前から少し素直になった。食べたいもの、行きたいところ、わたしの中の欲望達はすっかり目を覚ました。
今だって、こんなにも可愛い水着を見た途端。心配事が少しの間見えなくなって、着てみたいって素直な気持ちだけがわたしを支配したんだ。
似合うかな。これは遠慮や謙遜の言葉なんかじゃない。心の底から、似合いたいって思った。その言葉。
「優、こっち来てみて」
「えっ、うん」
お姉ちゃんはわたしを近くにあった姿見の前に立たせた。そして水着をわたしの前に持ってきて、身体に合わせる。
「優、自分の顔よく見てみて」
「顔?」
鏡で顔を見るのは好きじゃない。朝も、なるべく自分の顔を見ないように支度をする。わたしは深いクマがあって、肌もかさついて、やせ細っていて。なによりも、陰鬱な表情は更に心を曇らせてしまう。
嫌々、という思いを見ないようにして、わたしはわたしの顔を見る。
映っていた顔は、今まで知っていたそれとは少し違った。
クマは、もうだいぶ薄くなった。ほんのりとピンク色の頬。肌のかさつきは目立たなくなって、頬に丸みがある。
変わったんだ。今この場でやっと気が付いた。お姉ちゃんと出会ってから、ちゃんと夜眠れるようになった。食事もちゃんと取るようになった。お風呂あがりはお姉ちゃんのくれた保湿クリームを付けるようになった。
少しの間に、嫌いだったこの顔はずいぶんとましになった。遅れて、口元が少し上がっていく。
「出会ったばっかのころの優は、もっと暗くて疲れた顔してたの。でもね、ほら。今はこんなに明るくなった」
そうだ。変わったのは心だけじゃない。お姉ちゃんのおかげで、わたしは健康な生活を送れていた。それはこういう目に見える形となって現れるんだ。
この水着だって、似合うかもしれない。水着に負けている印象は拭えずとも。一握りの自信を持って、装えるかも知れない。
胸が高鳴った。楽しみだ。海に行くことが、とっても楽しみだ。
お姉ちゃんと一緒にいられる。それだけで十分楽しみだったそれは、好きな水着を自信持って纏えるという新しい楽しみが加えられ一層輝いた。
そうだ。お姉ちゃんの水着。悩むかと思ったけれど、思いの外すぐに決まった。
お姉ちゃんはわたしと違ってスタイルがいい、それですごく美人。つまり、とびきり派手なのでも似合っちゃう。もちろん上品なのがいいけど、お姉ちゃんはたぶん色んなのが似合う。
そう思って水着コーナーをめぐり、手に取ったパレオの水色が綺麗なビキニを見たお姉ちゃんが、ちょっと照れていたのは気にしなかった。
いくつものテントやパラソルの並ぶ海岸、空いていた小さなスペースに、お姉ちゃんはパラソルを立てた。
海、海。海に来るのは何年ぶりだろうか。電車に乗って十分くらい。そこから歩いて五分くらい。そんなに遠い距離ではないのだけれど、来る機会なんて今まで無かった。
お母さんと行くだなんてありえないことだし。誘ってくれる友達はいなかった。一人で行く目的もないので、ああ、小学校の課外活動が最後か。
「海、久しぶりだなぁ」
パラソルの下、お姉ちゃんは日焼け止めを塗りながら呟いた。
「お姉ちゃんも、久々なの?」
「うん、夏の間は忙しかったりだし、わざわざ行こうって気にもならなくてね」
「そう、なんだ……」
太陽に照らされて、キラキラと光る海。遠くを眺めてたら、ふいに、背中にぺたりと冷たい感触が走る。
「ひっ」
「優も日焼け止め塗んないと!」
お姉ちゃんの手がわたしの肌を走り、クリーム色の日焼け止めを塗りたくる。じりじりと暑い空気の中にあるわたしの身体には、ひんやりとしたお姉ちゃんの手はとても心地の良い感触。
ああ。わたし、海に遊びに来るようになったんだ。夏に、遊べるようになったんだ。
昔の自分に言っても、信じてはもらえないだろう。まるですごく良いこと、それも偉いことをしているような気分だ。
お姉ちゃんと水を掛け合って、少し深いところで浮かんでみたりした。お姉ちゃんがわたしを砂に埋めたり、わたしに埋めさせたりした。綺麗な水着が汚れるので、海に入って砂を流す。
どこを切り取っても、素晴らしい夏の思い出。なんてタイトルが相応しい景色。カメラは無いから、心のなかにたっぷりと焼く。
お姉ちゃんは優しくておしとやかな声だけれど、笑うととっても無邪気に聞こえて。わたしもつい、声を抑えずに笑う。
自分の喉から、こんなに幸せそうな音が聞こえるなんて。そんな驚きも一瞬のうち、すぐ楽しさがわたしを呑み込む。
お姉ちゃんを照らしてる眩しい光に、少しオレンジに色づいた頃。
すっかり疲れたわたし達は、またパラソルの下、海の家で買ったラムネを側に座っていた。まだまだ動けそうな感覚なのに、手足はとっても重く感じる。
さっきまで青に白が輝いていた海は、オレンジ色が塗られたように。海の遠く向こう側に、お日様が低く浮かぶ。眩しいけれど、いつまでも眺めていたい。
「ラムネ、飲もっか。ぬるくなっちゃう前に」
「うん、お姉ちゃん」
ラムネを手にとって、砂の上、ビー玉を二人一緒に押し出した。ぷしゅ、と小さな音が響くと、白い泡が砂浜にかわいい染みを作る。
ラムネ瓶を通る夕日が、今度は中のラムネを通る。透明に濁った光はぼやけて、ラムネの中で揺らめいている。
わたしはお日様をラムネで透かしたまま、飲まずに眺めていた。
「綺麗だね、優」
「……うん、綺麗。すごく綺麗」
綺麗なのは。
「……海も、夕焼けも。こうやって海に来て遊んだのも、全部綺麗。まだどきどきしてるもん」
ぴたりと、肩に触れたのはお姉ちゃんの体温。寄りかかるようにわたしに身体を預けてくるので、わたしも同じように力をかけていく。
「水着、ありがとうお姉ちゃん。これすっごくかわいい。気に入っちゃった」
「優もありがとう。優、センスあるよ。お姉ちゃんも気に入ったよ」
いつまでも、続いてほしい。もうオレンジ色がさっきよりも強くなった。まだ、数分しか経っていないのに。きっと数分、数分、すぐに暗くなってしまう。
でももう少しだけ。こうしていたい。
お姉ちゃんが何も言い出さないのは、きっと同じ気持ちだから。
もう少しだけ、こうしていようね。
もう少しだけ。
夏が終わるまで、あと少し。




