【8】夏の去る前に
目の前のあんみつにたっぷりとかかった黒蜜。木の格子から差し込む夏の日ざしが、その艶を光らせる。
わたしはスプーンを手に持ったまま。心を昨日の夜に置いてきてしまっていた。
「優。食べよ、優」
もう聞き慣れたお姉ちゃんの声が、どこか遠くに感じてしまう。
「うん」
ぼうっとしたまま、甘味を口に運ぶ。本来その上品で濃く深い甘さは、ただわたしの舌を滑っていくようで。
気づいた頃には、とっくに漆塗りの器は空になっていた。
「……お姉ちゃん。本当なの、一緒にいられないって」
自らその言葉を発することが、余計にわたしを苦しめる。口に出して確認するその感覚が、未だ受け入れられない事実から目を背けさせないでいる
「……うん。本当だよ」
花火の後の夜。お姉ちゃんと手をつないで歩く帰り道だった。
ずっと一緒にはいられない。そう告げたお姉ちゃんの横顔は、ものすごく悲しげだった。
わたしはその言葉を聞いて、何も言えないままだった。以前から感じてた不安。お姉ちゃんがわたしに覚えさせる、日常への違和感。きっとそれはいつか姿を現して、この夢みたいな日常からわたしを覚ましてしまうのではないか。
そんな予感が、輪郭を帯びた。
そうなんだ、と。わたしは絞り出すようにせいいっぱいの返事をして、それから、お姉ちゃんの手を強く握り返した。
お姉ちゃんはわたしの返答を不思議に思ったのか、少し手の力を弱めたあと、今度はわたしよりつよく握り返しきて。
強く握られた手と手が、却って別れを意識させたのだった。
今目の前のお姉ちゃんは、いつもの優しい微笑みに、一握り悲しさを足したような表情でわたしを見つめている。
聞きたいことは山ほどあるにもかかわらず、何も、何も言えない。知りたくない。もうこれ以上、受け入れたくない。
「夏の間。この夏が終わったら、お姉ちゃんは優とお別れしなきゃいけないの」
表情を変えずに、お姉ちゃんは言う。どうして夏の間なのか、お姉ちゃんはどこへ行ってしまうのか。そもそも誰で、どこから来て。
「色んなこと、聞きたいよね。気になること、いっぱいあるもんね」
そんな考えすらお姉ちゃんは察して。
「……優が、自分の口から聞いてきたら、かならず教えてあげる。隠さないで、本当のことちゃんと伝える。もし知りたくなかったら、何も聞かないでもいいの」
わたしの顔を見つめるその目線は一瞬も逸らさずに、さっきよりも明るい口調と表情でお姉ちゃんは言う。
心の中が、情けなさでいっぱいになった。溢れてしまいそうになった。お姉ちゃんに何から何まで察してもらって、気を遣ってもらって。でもわたしは、お姉ちゃんのために何かできただろうか。
こんなにも、こんなにも優しさをくれるお姉ちゃんに、わたしはずっと甘えきりで。
お姉ちゃんのことをなにも知らないまま。分かってあげられないまま。そんなことは許されない。
だから、喉への力の入れ方すらあやふやなまま、わたしは口を開く。
「一個だけ聞きたいことがあるんだ。これ以外のことは、そのうち、絶対に聞くから……今はこれだけ知りたい」
「……うん」
「……お姉ちゃんの一番の幸せって、どんなことか、教えてほしい」
テーブルを挟んで、ふたりずっと目を合わせたまま。流れたのは、静かな空気。
そして。
「優が幸せでいること、かなぁ」
「……ううん、違うや。優とずっと一緒に、幸せでいること」
ほんの少し照れくさそうに、笑ってみせた。
おまんじゅうに絵葉書に、木製のキーホルダーに、かわいい扇子。
お土産と思い出の詰まった紙袋を抱えて、電車の揺れに眠気を煽られる。まだ時間はかかるし、少し寝てしまおうか、なんて思っていると、お姉ちゃんの頭がわたしの肩に乗ってきた。
お姉ちゃんの切り揃えられた前髪が影を作って、お姉ちゃんの顔はよく見えないけれど。きっと疲れて眠ってしまったんだろう。
電車の走る音、周りのまばらな話し声。その途切れ途切れの合間に、お姉ちゃんの微かな寝息が聞こえる。
今はまだ7月。夏の終わりとはいつなんだろう。そんな曖昧な言い方なのだから、日にちの明確に決まったものではないのかもしれない。
耳や頬、指先に、あの冷たい秋の風を感じる頃。お姉ちゃんはどこかへ行ってしまう。
わたしとずっと一緒に、幸せでいる。わざわざ言い直したお姉ちゃんの、心の底から望んでいること。わたしだって同じだ。一緒に、一緒に幸せでいたいんだ。
わたしには何ができるのかな。
お姉ちゃんのために何ができるのかな。
遠くの景色を眺めながら。思い出すのは花火の夜。二人並んで食べたりんご飴、ベビーカステラ、たいやき。
お姉ちゃんとの思い出は一つ残らず幸せなもの。あの初めて出会った雨の日も。悪夢を満た夜も。喫茶店も。過ごした毎日は、絶対に忘れられないって思える。思い返すたびに蘇る。
夏が終わるまで、まだ時間はある。素敵なお店も知らないし、観光地も知らない。何もできないわたしだけど、何かをしなくちゃいけない。
お姉ちゃんから貰ってばっかりじゃ、ダメな気がする。いくら二人で幸せにいられても、ダメな気がするんだ。
考えて、考えて。何をしたらいいだろう、お姉ちゃんと何をできたら素敵だろう。
最寄り駅のアナウンスが車内に響くまで、わたしはずっと考えっぱなしだった。眠気さえ忘れたまま。




