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【モノローグ】水の中

 じめじめと肌に張り付く暑さ。今にも雨が振りそうな分厚くて鈍色の曇り空。


 学校と家の中間あたり、人気のない奥まった公園のベンチでわたしは休んでいた。


 買ったばかりの冷たいお茶はすでに半分を残すのみ。学期末の休校の殆どを家で過ごしたせいで、普段の登下校ですら膝が笑ってしまう。


 それに、この嫌な暑さ。こればかりは耐えられない、制服のワイシャツの下で今も汗がにじみ続ける。


 周りに誰もいないことを確認したら、ワイシャツのボタンをふたつあけて、ハンカチで中を拭う。


 思ったよりも湿っている。どおりで気持ち悪い訳だ。


 拭いながら、開けた学生鞄の中身をふと除く。すると、ハンカチにひっぱられて顔を出していたのは、小さなサイズのリングノート。


 クラフト紙の表紙にはなんの文字もない。片手にとって、一枚目をパラリとめくる。


『7月10日 早起きして学校に行けた。』


『7月11日 休み時間にトイレの個室にこもらなくて大丈夫だった。』


『7月12日 一回も学校で泣かなかった。』


 お姉ちゃんに言われたあの日から、欠かさずにつけている。がんばったことノート。

 

 自分でも、書いてある内容はくだらないものだって分かる。誰でもできる、誰でもやってる普通のこと。


 人より遅れてるわたしは、こんなことで一喜一憂している。だからトロいんだ、だから悪目立ちするんだ。だから、だから。


 ああ、いけない。自分で自分の悪口は言っちゃ駄目だとお姉ちゃんが教えてくれたのに。癖になってしまっているのか。


 お姉ちゃんはこんな内容でもすごくわたしを褒めてくれる。すごいね、偉いねとそれだけじゃない。どんな気持ちだったか、どんな辛さに耐えたか、察そうとして寄り添って褒めてくれる。


 日付ごとに書かれた一文一文、なんて褒められたか思い出せる。思い出すと心が熱くなって、嬉しくなって。


 ある日付に書かれた一文が目についた。


『息継ぎが一回で済んだ。』


 息継ぎ。水泳の授業だった訳じゃない。


 この表現はわたしの中でしか通じない。お姉ちゃんに見せたときも、少し意味に戸惑っていたみたいだった。


 そう、息継ぎ。小学校の頃だったか。初めてやり方を知ったのは。









 わたしは学校を水の中のように感じていた。


 教室の中が一番深い。水がたっぷりとみたされたプールのような、海のような場所。


 赤いランドセル抱えて、息を大きく吸い込んで、意を決して水に飛び込む。


 もちろん息が苦しくなってくる。肺に、口に、二酸化炭素が溜まって苦しくなる。けれど耐えて、耐えて、まだ耐えて。


 授業と授業の間。五分間の休憩中に、わたしは廊下へ飛び出した。階段を駆け下りて、後者の隅、ホコリ臭い空き教室へ入る。


 そこで。やっと二酸化炭素を吐き出した。心拍数が落ち着くのを感じ、何度も何度も深呼吸を重ねて、涙がひとつふたつと溢れる。


 ここには誰もいない。誰もわたしを見ていない。誰の目もない。それがどれだけ楽に思えたか。


 心が落ち着ききる前に、空き教室を出ていく。ごくごく短い間に、吸えるだけの酸素をまた吸い込んだ。これでまた頑張ろう。そう思って。


 その頃、家はもっと息がしづらかった。お母さんのいるお家は水に満たされていて、苦しいだけじゃなく、何度も痛い思いもした。青くなった体を見て、床に落ちた血を見て、息ができなくなっては咳き込んだ。


 ちゃぶ台にぽんと置かれた千円札があれば、これはお母さんのいない合図。このときだけは心がふわりと楽になって。目いっぱいに空気を吸ったら、人ひとり分のサイズにくるんだ布団を抱きしめて眠る。


 

 この水の正体は、きっと不安そのもの。

 

 誰にどう思われているか、漠然とした不安。

 

 誰にどう思われているか、分からないのはとても怖い。嫌われるのも怖い。何かされるかもしれない、なんて心配じゃなく、漠然と、ただ怖い。怖い。


 迷惑かけたくないから、嫌われたくないから、精一杯笑顔を浮かべて過ごしてみた。筆箱と上履きが捨てられてても、頑張って笑ってみせた。陰口だって、聞いていないと思いこんで過ごした。穴の空いた制服も。水を吸って膨れ上がった教科書も。見ないで過ごした。


 震える手を抑え込んで、上ずった震える声を隠すように話した。ただ笑って、誰かのためにできることは何でもした。みんなの不都合になることだけは、絶対にしないよう気を付けた。


 いつしか、手首に傷ができていた。


 嫌われていることに、わたしはわたし在り方を感じてしまった。嫌われれば嫌われるほどに、やっぱり、やっぱりって。ある種の安心を覚えてしまう。


 期待なんてしない方がいいんだ、どうせ。どうせわたしは幸せになれない。なんの取り柄もない、なにひとつ満足に誇れない、この世界に間借りさせてもらってるいらない人間。そう思い込もうと毎日毎日自分に言った。


 わたしのことを嫌う言葉だけは、心の底から信じることができた。









 ぽつん、ぽつん。と、リングノートに涙が落ちる。


 お姉ちゃん、お姉ちゃん。はやくお姉ちゃんのところへ帰ろう。


 初めての褒め言葉は、わたしの心の壁にぶつかって消えていった。そんな言葉はわたしに似合わない。わたしみたいな人間のために使っていい訳がない。


 お姉ちゃんはそれでも、何度もわたしを褒めた。聞いたこともないような、明るい言葉。あたたかい言葉。知らない、そんな言葉知らない。


 ハンカチで、目に溜まった涙を拭き取って、リングノートをカバンにしまい込む。


 そしたら少し小走りに、家へと向かう。


 もう知ってしまったから。戻れない。


 私を肯定してくれる人。たった一人の、わたしを好きでいてくれる人。唯一の、大好きな人。


 その好きって言葉の裏に何かが潜むのかもしれないなんて発想はできなかった。わたしはお姉ちゃんのことを疑えない。あんなにもわたしを支えてくれる人を、そうは見れない。


 アパートが見えてくる。あれは帰る場所。わたしの居場所。息継ぎのためじゃなく、帰るためのお家。


 わたしの、幸せ。


 いつだって変わらない、幸せ。



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