9.養父がやって来た
「お仕事のお邪魔をして申し訳ありません。先程の件は子どもの戯言ですから、どうか忘れてください。それでは私たちはこれで失礼いたします」
ミホは呆然としているショウタに向かって一気に言い切り、ミノルの手を引いた。
「ちょっと待って、ミホ姉ちゃん」
ミノルが止めようするが、
「いいから帰るわよ」
ミホは後ろを振り返ることなく、下駄箱でスリッパを草履に履き替えて、ミノルを引きずるようにして中央病院を後にした。
「元気が良さそうなお嫁さんで何より」
「若先生にお似合いですね」
「本当。微笑ましいわね。私も若かったら命の恩人のショウタ先生に嫁にもらって欲しいぐらいだけどね」
「孫がいるのに何言ってんだか」
待合の患者たちはとても賑やかにショウタとミホのことを噂していた。
「とうとうショウタ先生も結婚する気になったのか。おめでとう」
未だに呆けているショウタの肩を叩いたのは、中央病院の院長であった。ショウタと同じように洋装の上に長い白衣を着た四十歳くらいの小柄な男性である。
「院長、何か誤解があるようなんで」
ミホと結婚のことなど話したことはない。なぜ急にそんな話になったのかショウタにもわからなかった。
「いい娘じゃないか。何か気に入らないところがあるのか?」
先程血相を変えて階段を降りて行くショウタを見かけ、何事かと院長が後を追えば、心配そうにミホの手を取るショウタを見てしまった。
「そ、そんなことは。ミホは料理が上手いし、よく働くし、とにかく気立てのいい娘だから」
ショウタは慌てて否定する。ミホに気に入らないところなど何もない。強いて言えば、謙虚過ぎるところくらいかもしれない。
『ミホと結婚すれば、毎日料理を作って待っていてくれる』
ミホの作るご飯ならいくらでも食べることが出来るショウタだった。
『ミホとよく似た娘を産んでくれるのか。そして、俺に似た鬼の息子も』
この町にはショウタの他に鬼の父と息子が住んでいる。家族を持たないショウタはいささか羨ましく思っていた。
『結婚したら、ミホはあの家を出ていくことはない』
そう考えたショウタは、もしミホとミノルが家を出ていってしまったら、寂しさに耐えられるのかと自問していた。
「わかった、わかった。ショウタ先生があの娘に惚れているのは十分わかったから。妄想していないで午後の回診行くぞ」
院長は笑いながら二階への階段を登っていった。
とりあえず市場まで戻って買い物を済ませたミホとミノルは、ようやく家へたどり着いた。
「ミノル。ショウタさんが帰ってきたら、ちゃんと謝るのよ。職場の方にも迷惑をかけてしまったから」
買ってきた物を冷蔵庫に仕舞いながら、ミホは仕分けを手伝っているミノルに少しきつく言う。
「ミホ姉ちゃんはショウタさんのことが嫌いなの?」
ミホがなぜ怒っているのかわからず、不思議そうにミノルは訊いた。
「嫌いじゃないわ。ショウタさんはとてもいい雇い主だと思うわよ。私たちをまるで家族のように扱ってくれる。でもね。勘違いしては駄目よ。私たちはお手伝いとして雇われているのだから。ショウタさんが奥様をもらったら、私たちは不要になるかもしれないの」
その言葉はミホ自身を傷つけた。
「こんな大きな屋敷に住み、帝国大学を出て、大きな病院に勤める医師。ショウタさんは私なんかと結婚しないから」
それはミホが自分自身に言い聞かせる言葉だった。
「ミホ姉ちゃん。僕、ショウタさんが本当の兄ちゃんになったら、嬉しいと思ったから」
ミホの辛そうな顔を見て、子どもながらにミノルは何かを察してそれ以上言葉を発しなかった。
「さぁ、夕飯の用意をしましょう。今日はポークカツレツよ。豚肉を厚めに切ってもらったの。パン粉を付けて天婦羅のように揚げるんだって」
帝都のレストランのメニューだと雑誌で紹介されていたので、ミホは自己流で作ってみることにした。
「楽しみ!」
ミホの料理を楽しみにしているのはショウタだけではない。ミノルもミホの料理が大好きだった。
「キャベツの千切りを添えるんだって。ソースも買ってきたのよ」
はしゃぐミノルを見て、ミホはショウタも喜んでくれるだろうかと思っていた。
「それは美味しそうだね」
突然後ろから声をかけられてミホは驚く。振り向いてみると、五十歳過ぎの男性が立っていた。
「あの、どなたでしょうか?」
驚いたミホはミノルを背中に隠しながら男に訊いた。
「一応ここの家主だな。サエキセイスケという名だ。お嬢さんに坊っちゃん、よろしくな。それはそうと鯵を持ってきたんだ」
男はまるまると太った鯵の周りに砕いた氷を入れた桶を持っていた。
「あの、私はミホと申します。ショウタさんに住み込みのお手伝いとして雇っていただきました。この子は弟のミノルです。よろしくお願いいたします」
ミホはミノルの頭を押して礼をさせ、自身も深々と頭を下げた。
「そう緊張せんでいい。ここの家主は実質的にはショウタなのだから。それにしても、この家は綺麗になったな。二ヶ月前に来た時はお化け屋敷かと思ったが。あんたらのお陰だ。ショウタは旨いものを食わしてもらっているようだし、安心したぞ」
セイスケは嬉しそうに笑った。
「この鯵を刺身にしたいのだが、いいだろうか?」
鯵の尾びれを持ち桶から取り出すセイスケ。
「もちろんです。お手伝いいたします」
ミホは頷いた。
「こっちはいいので、ミホさんはポークカツレツとやらの用意をしてくれ。私の分もあるかな?」
セイスケは期待のこもった目でミホを見る。
「大丈夫です。豚肉はたくさん買ってきましたから」
それを聞いたセイスケは本当に嬉しそうに笑った。血は繋がっていないはずなのに、ショウタの笑顔に似ているとミホは思う。
「鮮やかな手捌きですね」
素早く鯵を三枚におろすセイスケを、感心したようにミホが見つめている。
「釣りが趣味だからな。魚をさばくくらいできないと馬鹿にされてしまう。今日も朝から漁師に船に乗せてもらって、この立派な鯵を釣り上げてたんだぞ。意気揚々と家に帰ったら、ショウタが婚約したと電話をもらって、祝いにしようと思って車を飛ばしてきたんだ」
電話をしたのは中央病院の院長である。院長は師であるセイスケにショウタのことを頼まれていたので、本日の顛末を電話で伝えていた。
「ショウタさんが婚約?」
ミホは息を呑む。ぼんやりと恐れていたショウタの結婚が具体的になっていると知り、ミホは思った以上に衝撃を受けていた。
「相手はミホさんだろう? 今日は中央病院で婚約を宣言したと聞いたが」
「それは違います。誤解です。私はただのお手伝いですから」
真っ赤になりながら否定するミホをセイスケは笑いながら見ていた。
「それは残念だ。ミホさん、少し話を聞いてくれるか?」
鯵をさばき終えたセイスケは、柵の状態にして皿に乗せ冷蔵庫にしまった。そして、手を洗いミホに向き合う。
「もちろんです」
セイスケが何を話すつもりか予想ができず、ミホは内心不安だったができるだけ顔に出さないようにして頷いた。
「ショウタは目を凝らすと体の中が見えるらしい。悪性の腫瘍ならば匂いでもわかるという。そのことを知ったのはショウタが十歳くらいの時だった。医者としては垂涎の能力を持ってショウタは生まれてきた。私はショウタを医者にしようと思い勉強をさせた。ショウタは私の期待に答えようと死ぬほどの努力をして、鬼で初めて帝国大学の医学部に合格した。ショウタは身体能力も優れていて、信じられないほどの速さと正確さでメスを振るうことができる。そして、神の目と、神の鼻と、神の手を持つ世界でも最高峰の医者になった。でも、私は間違っていたかもしれない」
鬼は不思議な力を持って生まれてくる。ショウタは可視光以外の光を捉える金色の目と、犬のように鋭い嗅覚を持っていた。
「そんな凄いお医者様になったのなら、とても良かったのではないでしょうか?」
優しいショウタだから、人を助けるためにそんな能力を持って生まれてきたのだとミホは思う。
「ショウタにしか助けられない命がある。手術中に患部が見えているのだから、最小の切開で病巣を摘出できたり縫合したり出来るんだ。しかし、ショウタの時間は限られていて、命の取捨選択を迫られることもある。また、ショウタだから救えた命が、世間に迷惑をかけてしまうことも。それはショウタにとって辛いことだ」
「極道の親分とかですよね。それでも、沢山の命を救ったショウタさんは立派だと思います」
確かにミホはあの極道たちに売り飛ばされそうになった。しかし、ショウタは善良な人の命もたくさん救ったはずである。
「そうだよ。ショウタさんは凄い」
ミノルも同意する。白衣を着て現れたショウタは本当に格好良かったとミノルは思う。
「それでも私は後悔している。心優しいショウタには、力仕事をしてその日の汗を流して恙無く一日が終わるような生活の方が合っているのではないかと。鬼が知的な職業に就くと不快に感じる人がいるんだ。そういう人はね、どんなに命を救ってもショウタを絶対に認めない。鬼である。ただそれだけでね」
「そんな……」
優しくて努力家なショウタを、鬼というだけで認めないなんて許せないとミホは思う。
「どんなに差別されても、ショウタにさえ救えない命を見送るしかなくて辛い思いをしても、ショウタは医者を辞めないだろう。だから、あの子を癒やしてやって欲しんだ。できるだけショウタの傍にいてやって欲しい」
セイスケはミホとミノルに頭を下げた。