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6.それは仕事だから

 台所は広くてとても使いやすかった。

 かまどや七輪の他にも大きな薪オーブンがある。水道も引かれていて、自由に水が使えるようになっていた。台所の裏には井戸まであり、冷たい水も手に入る。

 上質な炭が大きな袋に入れて積んであり、食器や調理器具も揃っている。

 大きな木の箱が隅に置いてあるけれど、ミホには用途がわからなかった。


 早速めんつゆを作って、薄焼き卵を焼く。きゅうりを細切りにして、食べる直前に葱を刻めば用意は万端だ。

「ミホ姉ちゃん、これ何? ショウタさんの髪の毛みたいだな」

 ショウタが買った食材を整理していたミノルが、とうもろこしを見つけて黄緑のひげを触っている。

「とうもろこしね。ショウタさんの髪はもっと黄色いわよ。ショウタさんが買ったものは好きに使っていいって言っていたから、焼いてみようか?」

 大食漢のショウタは素麺だけでは足らないのではないかと思い、ミホはミノルからとうもろこしを受け取った。


 ミホは棚に上に積んであった古新聞を丸めてマッチで火をつけ、七輪の炭の上に置く。炭に火がつき火力が落ち着けば、網を置いて醤油を少し塗ったとうもろこしを三本並べた。

 それから水を入れた鍋を火にかけて素麺を茹でる準備をする。


 愚図だと怒鳴られることもなく、誰に気を使うこともなく、自由に調理できることはミホにとってとても楽しく、時間があっという間に過ぎていく。

 夏の日は長いが、ようやく太陽が沈みかけ、西の空が赤く染まっていた。


「ミノル、ショウタさんを起こしてきて」

「わかった。行ってくる」

 嬉しそうに勢いよく駆け出すミノルを見て、ミホは微笑む。

 目的も希望もなく何となく生きてきたミホは、弟を幸せにしたいという目標を得て、初めて明確に生きたいと願った。



「美味そうな匂いがするな。おお、とうもろこしを焼いているのか」

 台所に現れたショウタは、洋服を脱いで浴衣に着替えていた。少しはだけた胸元から引き締まった胸が見え、ミホは恥ずかしくて目をそらしてしまう。風呂屋に勤めていたので、男性の裸など見慣れているはずなのに、どうかしているとミホは首を傾げていた。


 ミホは井戸の水で冷やした素麺を涼し気なガラスの器に盛り、きゅうりと錦糸卵を飾り付けた。すりおろした生姜を添える。

 焼きたてのとうもろこしは醤油のいい香りがして、食欲を刺激している。

 

「なあ、ショウタさん。台所にあった木の大きな箱は何だ?」

 食器棚や食品庫にしては扉が厚く頑丈すぎる。ミノルが扉を開けてみると中は空だった。使用用途がわからず、ミノルはショウタに訊いてみた。

「あれは冷蔵庫だ。上の棚に氷を置いておくと、下の棚が冷えるんだ。夏はかなり便利だぞ。俺はあまり家にいないから使っていなかったけれど、ミホとミノルが住み込みで働いてくれるのなら必要だな。氷を運んでもらうように頼んでおく」

 美味しそうに素麺をすすっているショウタが、何気もなく答えた。

 ミホは氷がとても高価なことを知っていたので、食品を冷やすだけのために氷を買うのかと驚いていた。

 ミノルは答えがわかって気が済んだのか、美味しそうにとうもろこしにかぶりついていた。



「食った、食った。ミホは料理の才能があるな」

「そ、そんなことはないけど」

 風呂屋に勤めだしてから褒められたことなどなかったので、ミホは少し面映い。しかし、ショウタは高価な肉鍋と同じくらい美味しそうにミホが作った料理を食べているので、ミホはとても嬉しく感じていた。


「さぁ、風呂の用意をしてくる。家主が風呂好きなんで、風呂屋ほどでもないけれど、かなり大きいからな。ミノル、楽しみにしていろ」

 立ち上がるショウタをミホが止める。 

「食器を片付けてから、私が風呂の用意をします」

「いや、薪は重たいし火は暑い。大変だから俺がするよ」

「私は風呂屋の就業員だったのですけど」

 ミホには職業として風呂を沸かしていた矜持がある。素人のショウタに任せることはできない。


「僕が食器を洗うよ。それくらいなら出来る」

 ミノルが元気に手を上げた。

 一人だけ働いていたミノルの母は家事を放棄していた。古い人間の父は家事を全くしない。ミノルが家事をしなければ家は荒れ放題になる。

 親切な近所のおばさんに教えてもらいながら、ミノルが家事を行っていた。


「それじゃあ、俺は何をしたらいいんだ?」

 一人だけ仲間はずれにされたようで、ショウタは寂しく思っていた。

「それでは、薪を風呂釜の近くまで運んでおいてもらえますか。それと、ミノルを風呂に入れてください」

 雇い主に言う言葉ではないなと思いながら、ショウタの目が仕事をくれと訴えているような気がしたので、ミホはそう頼んだ。ミホの言葉を聞いたショウタは嬉しそうに外に出ていった。


「何か違う」

 ミホが首を傾げる。高圧的に命令されることに馴れていたミホは、雇い主としてはありえないショウタの態度にかなり戸惑っていた。


「ショウタさんと風呂に入るの楽しみだな」

 ミノルはさっさと食器を流し台に運んでいた。



「ここの風呂は凄いよ。泳げそうなほど広いんだ。本当に楽しかった」 

 ショウタと手をつないで風呂から出てきたミノルが、風呂の火を落として家の中に入って来たミホを見つけて走り寄る。

「知っているわよ。湯船を洗って水を入れたのは私だもの」

 風呂屋の半分ほどもある大きな湯船に驚いたのはミホも同じだった。


「湯は沸かさなくていいのか?」

 ミホが望むなら釜に火を入れようと思うショウタ、

「温い湯が好きだから、このままでいいの。それでは私もお湯をいただきますね」

 仕事終わりに、火を落とした温い風呂に入る時間がミホは好きだった。一日が終わったことを実感できるから。朝風呂の用意で早朝から働き、夜は九時過ぎまで勤務する。昼は賄いの手伝いやお使い。休み時間もほとんどなく働いてきた。

 突然社会に放り出されて、何もわからぬままに底辺に這いつくばるように生きてきた。十年も経って、普通ならば結婚して子どもの二、三人も産んでいる年令になったけれど、それは何も変わっていない。

 そんなミホを癒やすのは、無人の湯船につかること。

「気持ちいい」

 たった二人が使っただけの綺麗な湯を、ミホは楽しむことにした。



「ミホ姉ちゃん、寂しいなら一緒に寝てやってもいいぞ」

 ふすまの向こうからミノルの声がする。

 広い敷地に木が鬱蒼と茂っていて、周りの家は全く見えない。そのため、まるで世界に自分だけしかいないような錯覚に陥る。

 狭い長屋で暮らしていたミノルは、静かな部屋に一人で寝るのが心細くなっていた。


「そうね。ちょっと不安だから一緒に寝てもらおうかな」

 ミホはふすまを開け、ミノルに頼んだ。ミノルは嬉しそうに布団を引っ張ってミホの布団の隣に敷いた。

 ミホとミノルの怒涛のような一日はこうして更けていく。



 翌朝、早くに目が覚めたミホはご飯を炊く用意を始める。おかずは干し魚と海苔。味噌汁の具は椎茸と葱にした。

 井戸水で冷やした甜瓜(まくわうり)をデザートとして添える。


 起きてきたショウタは炊きたての御飯を見て破顔した。

「朝からこんなものを食ったら、今日も一日頑張れそうだ」

 相変わらず美味しそうに食べるショウタを見て、ミホも一日頑張れると思った。



「今日は土曜日だから昼までの勤務なんだ。昼過ぎに帰ってくるから、良かったら昼飯を作ってもらえるとありがたい」

 ショウタがおずおずと申し出る。

「それ、私の仕事ですから」

 こんな調子で給金がもらえるのか、少し不安になったミホであるが、ショウタに百十エンの借金があったことを思い出し、半年くらいはただ働きしても仕方ないのだと納得した。



「もし何かあったら、電話機のここをまわして受話器を取ると、交換手が出るからこの番号を言うんだ」

 玄関の板間には大時計あり、その横の壁に電話機が取り付けけられている。ショウタはミホとミノルに使い方を教えていた。

「この番号はどこにかかるの?」

 ミノルは壁に貼られた紙に書かれた番号を指差す。

「中央病院。俺の職場だから、サエキショウタを呼んでくれと言えば俺が出る」

「病院に勤めているのか? 凄いな」

 尊敬の眼差しをショウタに向けるミノル。

「そうでもない。家主のコネもあったしね」

 そう言ってショウタは家を出ていった。今日も洋装で山高帽をかぶっている。  


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