4.就職しました
「ここが俺の家だ」
中央役場から二十分ほど歩いた頃、ショウタが大きな門扉を指差した。塀は向こうの通りまで続いていて、四方を道に囲まれた広い敷地であることがわかる。
茂った木々のせいで家屋は見えない。
ショウタは門扉を押して開き、ミホとミノルを招き入れた。
「すごい家だな。でも、庭には木や草がいっぱいだ」
まるで森の様になっている手入れされていない広い庭を見て、ミノルが呆れたように言った。
「家の持ち主が温泉と釣りを楽しむために海辺の村に移住してしまって、俺一人残されたんだ。最初は庭師を頼んでいたが、段々面倒になってきて」
ショウタは小さな声で言い訳をした。自分でも放っておき過ぎだと反省しているのかもしれない。
門から続く鬱蒼とした庭の小道を歩いていると、古くて大きな屋敷に行き着いた。
「手入れはあまりしていないけど、部屋数は多いから寝るところには困らないと思うんだ」
大きな引き戸を開けると広い土間があり、式台の向こうには板間が見える。玄関には履物は見当たらず、人が現れる様子もない。
「一人暮らしですか?」
大きな屋敷にも拘らず、人の気配がしないことをミホは不思議に思った。
「そうなんだ。週に何度か通いの手伝いに来てもらっているが、俺は鬼だから住み込みで働いてくれる人がいなくて」
ショウタは諦めたようにそう言った。
鬼は心優しくて愛情深い生き物であるが、人ではありえないほど強い力を持つ。普段はとてもおとなしい鬼が、妻を傷つけられ大暴れしたような事例が複数起こり新聞沙汰になっていて、鬼に恐怖心を抱く者も多い。
使用人として鬼と同居しようとする者は少ないのかもしれないとミホは思った。
「私を住み込みで働かせてください。力仕事もできるのでお得ですよ」
ミノルと一緒に住み込みで働かせてもらえば、ミノルを小学校に通わせてやることが出来ると思い、ミホは思わず叫んでいた。
鬼は危険かもしれないが、今はそんなことを言っている時ではないとミホはショウタに詰め寄る。
「僕だって、草引きくらい出来るから雇ってくれ」
ミノルもやる気を見せている。子どもながらあの荒れた庭を綺麗にしてみたいと思っていた。
「ミホとミノルがそれでいいのであれば、好きなだけここにいればいいよ。ミホは風呂屋でどれ位給金をもらっていた?」
「部屋代と賄い代を引いて、月に五エン」
ショウタはその金額を聞いて顔をしかめた。
「いくらなんでも安すぎないか?」
ショウタの日給はもっと高い。
「女将さんがお金を全部渡すと使ってしまうから、別に貯めておいてあげると言ってくれたのだけど、退職金は四十エンだったのよね」
ミホは自嘲するように笑った。十年働いたので今までの給金の額である六百エンほどはあるかと期待していたけれど、甘かったようだ。
「ミホは月に二十エン、ミノルは三エンでどうだ? ミノルは学業優先だから一日二時間だけの勤務だからな」
「そんなにもらってもいいのですか?」
今までの四倍の金額にミホが驚く。
「いやいや、それは住み込みの家事手伝いとしては普通の金額だ。その金額でもなり手はいなかったが」
ショウタはちょっと落ち込んだ。
「すげー。働いたら僕のお金になるのか?」
「ミノルの給金はミホに払うから、ミホからお小遣いを貰え」
ミノルはキラキラした目でミホを見上げている。
「お小遣いの額は後で決めましょう」
もちろん、ミホはミノルの給金に手を付けるつもりはない。ミノルが望むならば高等小学校や中学校へ進学させたいと思い、お金を貯めておこうと考えていた。
「家主の部屋と俺の部屋以外は自由に使っていいから、布団を干して夜寝られるようにしたら、牛鍋食いに行こうぜ」
靴を脱いで板間に上がったショウタは、ミホとミノルにも上がるように促した。ミホとミノルは草履を脱いだ。
「牛鍋? 僕は食べたことがない」
ミノルは味を想像できないようだ。
「すっげー美味いんだぜ。期待していいから」
牛鍋はショウタの好物なので笑顔になっている。
「あ、あの、私は一文無しなので」
ミホも牛鍋屋に行ったことがない。しかし、高価であることは知っていた。
「今日は就職祝いだから、素直に奢られておけ。さっさと布団を干すぞ」
ショウタの家は思った以上に広かった。部屋数は十より多い。昔は書生が住んでいたという六畳間が二部屋あったので、そこをミホとミノルが一部屋ずつ使うことになった。
二人で使うので一部屋で十分だと固辞したミホだったが、
「どうせ空いているんだから二部屋使えばいい」
と言うショウタに押し切られた。
「部屋は続きだから、ミホ姉ちゃんも寂しくないよ。僕が隣にいるから安心して」
寂しいからではないと突っ込みたいミホだったが、ミノルはミホに頼られたと思い嬉しそうにしていたので、何も言わないでおいた。
部屋の押入れの中に布団が入っていたので、ショウタが裏庭の物干しまで運んで干した。
ミホは長い間使われていなかった部屋の障子や襖を全て開け、畳に水で濡らした新聞紙を撒いた。しばらくして箒で掃き出す。ミノルは雑巾で畳を拭いている。
ミホが住んでいた三畳の部屋やミノルが住んでいた長屋とは比べ物にならないような立派な部屋になった。
障子を開けると縁側があり、少し荒れた中庭に直接降りられるようになっている。夏とはいえ緑の多い中庭からの風は思った以上に涼しかった。
「掃除できたようだな。それじゃ牛鍋屋に行くぞ。夕方までに帰って布団を入れないと」
昼の時間は既に過ぎているが、まだ日は高い。三人とも昼食を食べていないので、随分と空腹だった。
歩いて三分ほどのところにショウタが馴染みにしている牛鍋屋がある。
かなり高級な店らしく、三人は個室に案内された。食卓には炭の入った鉢が置かれていて、ここで牛鍋を調理しながら食べるようになっている。
「今日は六人前用意して」
体の大きな鬼の食事量は多い。久し振りに人と一緒に食事をするので、ショウタは少し浮かれていた。
ミホは周りを見回して、どこにも料金が書かれていないことに驚き、いったい幾らなのかと恐れていた。
店の女給が牛肉を焼き始めると、あまりのいい匂いにミノルは涎を垂らしそうになる。
鍋が出来上がって女給が出ていくと、ミノルは待つことができず食べ始める。
「はふはふ、うめぇ」
ミノルは箸が止まらない。
「ミノル、そうがっつくなよ。卵をつけて食べるんだ」
ショウタはかごに入れられた生卵を手に取ると、とんすいに割り入れてた。そして、美味しそうに肉を卵につけて食べ始める。
ミホはあまりにも高そうな牛鍋を食べてもいいか躊躇っている。
「ミホも食え」
ミホの前のとんすいに生卵を割ってやるショウタ。ミホは腹を括って食べ始める。
「美味しい」
甘辛い肉の旨味が空腹に染み渡る。せっかくの美味しい料理なので、ミホは値段のことは忘れて食べることにした。
「ショウタさんのお父さんやお母さんはどうしたの?」
ようやくお腹が満たされてきたミノルがショウタに訊いた。
「俺、捨て子だったらしい。だから親のことは知らない。温泉好きの親切な人が鄙びた温泉郷へ行った時、山で自活していた俺を見つけて拾ってくれた。それがあの家の家主なんだ。だから、俺は年齢もよくわからないのだけど、その時五歳くらいだったらしいから、今は二十八歳だな」
丈夫な鬼だから幼児でも山中を一人で生き延びることができた。養親となったサエキセイスケは鬼で良かったなとショウタに言った。だからショウタは鬼であることを悲観しないように生きている。
家も職もある。セイスケは大きな魚を持ってふらっと帰ってくる。
それでも、人ではないショウタは孤独であった。