35.結婚式
女性の髪結師によって髪を美しく結い上げられたミホは、衣桁にかけられた白無垢を感慨深く眺めていた。
父に捨てられて以来たった一人で生きてきたミホは、ほんの半年ほど前に異母弟のミノルと出会い、共に暮らすようになった。
ミノルはまだ九歳の少年であるが、庭の手入れをしてショウタから賃金を得ていた。そのお金を三か月分貯めることによって、結婚のお祝いとして鶴の飛ぶ真っ白い反物をミホに贈ったのだった。
織り斑があるその反物をミホは自らの手で白無垢に仕立てた。一針一針、夫となるショウタへの想いを込めて縫い上げた。
この花嫁衣装には、ミノルの姉への想いと、ミホのショウタへの想いが込められている。
そして、一月三日の今日、ミホはこの白無垢を身にまといショウタの花嫁となる。
半年前まで何も持たず搾取されるだけだった孤独な女性は、弟の他に夫まで手に入れることができた。
これほど敬うことができる男性に出会えたことは奇跡だとミホは思っている。だから、ミホは誰よりも幸せな花嫁だと感じていた。
花嫁のミホに付き添うのは従兄の妻であるサエだ。彼女はショウタとミホのお陰で姑と小姑のカナエがとても優しくなったと感謝しており、母が亡くなって、父が失踪中のミホのために付き添いを申し出た。
サエの手でミホに白無垢が着付けられていく。
「ミホさん、とても綺麗よ」
「サエさん、本当にありがとうございます」
ミホの目は既に潤んでいた。
結婚式の会場はショウタの家である。元は武家屋敷だったので、襖を全て取り払うと四十畳ほどにもなる大広間が存在した。そこにたくさんのお膳が長方形に並べられている。その奥の短辺に当たるところには、赤いお膳に赤い盃が三段に重ねられて置かれていた。
その前にショウタが座っている。
花婿のショウタはいつもの洋装とは違い紋付羽織袴姿だ。黄色の髪の毛を持つ彼にはあまり似合わないかもしれないが、白無垢姿のミホに合わせたいと思い、ショウタは紋付を選んだ。
彼もまた感慨深くこの日を迎えていた。
ショウタは鬼として生まれ、記憶を全て失った状態で山中をさまよっていた。あのまま山で野垂れ死んでいてもおかしくない状況だった。それが若き医師セイスケと出会い、鬼として初めて帝国大学への入学を認められ、鬼として初めて医師免許を得ることができた。
その過程でショウタは蔑みや恐怖という感情を多くの人から向けられた。それは、強靭な肉体を使って仕事をする普通の鬼が感じる以上の強さであった。鬼が上流の仲間に入るのを頑なに拒否する人も多い。
いつしか、ショウタは人と深く接することを恐れるようになっていた。結婚も半ば諦めていたといってもいい。
そんな中で、ショウタはミホと出会ったのだ。優しい彼女は鬼を蔑んだりしない。そして、逞しくもあるミホは鬼を恐れてもいなかった。
それだからこそ、ショウタはミホに心惹かれた。彼女の笑顔は孤独だったショウタの心を溶かしていく。ミホと共に歩んでいきたい。心の中にその想いが募っていくのをショウタははっきりと自覚していた。
鬼は寂しがり屋で一途な生き物である。ショウタの心にミホ以外の女性が入り込むことは未来永劫あり得ない。それをこの目出度い日に誓えることは、ショウタにとって本当に嬉しいことだった。その心情が顔に出ているらしい。
「ショウタ先生、嬉しいのはわかりますが、顔に締まりなさすぎだと思うわ」
ミホの従妹のカナエが容赦なく指摘する。
「本当だな。今のショウタさんに診てもらうのは不安だ」
いつもはショウタの味方をするミノルさえもカナエに同意した。
「まあ、許してやれ。最愛の花嫁を得た男はあんなものだ。ミノルも大きくなればわかるさ」
若い頃に恋人を病気で亡くして、それ以来独身を貫いているセイスケだけはショウタを庇うが、顔は大いに笑っていた。
来賓の中央病院の院長も、看護婦長も笑っている。伯父夫婦さえも笑顔になっていた。
ナルカへの旅行が許されるほどに回復したフミと、ショウタの恩師であるクボタも嬉しそうだ。
そして、襖が開けられて、サエに手を引かれたミホが大広間に入ってくる。
目深にかぶった綿帽子越しにミホとショウタの目線が絡まった。自然と二人も笑顔になる。
ショウタの隣に座ったミホは、緊張しながら三三九度の酒をショウタと交わした。それは魂を結びつける儀式だともいわれ、未来永劫の交わりを誓い合う。
三三九度が済むと、誰からともなく目出度い謡が歌われた。朗々と長き幸せを願う歌が続く。
ショウタとミホが並んで縁側に出ると、近所の人も多数集まってきていた。口々に祝いを言う人々に紅白の餅が渡される。
ショウタの家はまるで祭りのような様相を呈していた。
招待客も酒と肴を大いに楽しんだ。未成年は豪華な食事を堪能する。
誰もが若い二人の門出を祝っていた。
そんな中、電話のベルが鳴り響く。
「私が出るから」
そう言って、セイスケが板の間まで出ていった。
「鬼の子どもが切られて、我を失った父親の鬼が暴れているだと!」
電話の相手は中央署の署長で、セイスケは思わず大声を上げてしまった。その声を耳の良いショウタが拾う。彼は立ち上がり、電話のある板の間まで急いだ。
「場所はエンバ三丁目。怪我人は多数。鬼の子は腕を切断されている。警察官に鬼への発砲命令が出されたのだな」
中央署の署長はセイスケと釣り仲間で懇意にしており、ショウタとも顔見知りであった。署長は鬼としてのショウタに来てもらえないかと依頼してきたのだ。
「俺は……」
ショウタは結婚式の席から抜けることを躊躇っていた。
「ショウタさん。行って。貴方はお医者様なのだから。皆を助けてあげて」
動きにくい白無垢を着たまま板の間まで出てきたミホがショウタに声をかけた。
「しかし、結婚式を台無しには……」
たった一度の目出度い結婚式。この日のためにミホは白無垢を時間をかけて縫い上げたのだ。それを無駄にはさせたくない。ショウタの心は揺れ動く。
「私は貴方の妻になるのだから、覚悟はしております。どうか、行ってあげてください」
そんなショウタの背を押したのはミホだった。
「わかった。行ってくる。酒を少し飲んでいるから俺は走って行く」
そう言うと、大きな診察鞄を抱えるように持って、紋付羽織袴のまま靴を履いてショウタは家を出ていった。




