34.婚礼衣装
それはミホとミノルが三回目の給料をショウタから貰った夜のこと。
「ミホ姉ちゃん、僕の給料は月三エンだから、もう九エン貯まったはずだよね」
久し振りにミホの部屋にやってきたミノルが訊いた。この家に来た当初のミノルは、一人で寝ることをとても怖がり、布団を運んでミホの部屋で寝ていたが、最近は自分の部屋で眠ることができるようになっていた。
「そうよ。何か欲しいものができたの?」
ミノルは学業優先のため一日二時間の約束で、サエキ邸の庭の手入れやミホの手伝いをして月三エンの給金を得ていた。ショウタの日当よりかなり低い金額であるが、尋常小学生のお小遣いにしては高額である。そのため、ミホが全額を管理していた。
ミノルが必要だと言えばお金を渡そうと思っているミホだが、ショウタが使っていた中学や高等学校の教科書を読むのが大好きなミノルは、おもちゃを欲しがらなかった。おやつはショウタやミホが用意しているので必要ない。学用品はショウタから貰った就職支度金でまかなえた。ショウタのお下がりも使える。
そのような訳で、ミノルは今までお金を欲しいと言わなかったので給料の九エンがそのまま残っていた。
「うん。欲しい物ができたんだ」
ミノルが嬉しそうに頷いた。
「幾ら必要なの?」
その様子にミホは安心する。子供らしくおもちゃでも欲しくなったのだろうと考えた。
「九エン全部いると思う」
「それは高すぎだと思うの。何を買うつもり?」
ミノルが労働で得た金額といえども、九エンは高額である。ミホには九歳児の裁量で使わせていい金額だとは思えない。
「ミホ姉ちゃんの婚礼衣装! ちゃんと仕立てて貰ったらとても高いけど、反物なら九エンで買えるものがあるって、商店街の呉服屋で確かめてきた。ミホ姉ちゃんは着物を仕立てられるから、大丈夫だよね?」
「えっ? 私の婚礼衣装って、そんなの、もったいないわ。この間仕立てた青い地に黄色い花の着物でいいわよ。そんなことに使うくらいなら、進学費用に貯めておこう。ミノルは勉強が大好きなんだから」
様々なことに興味を持っているミノルに、もっと勉強をさせてやりたいとミホは思っている。望むならショウタのように帝国大学にだって行かせてやりたい。
「駄目だよ。セイスケ先生の妹さんやショウタさんの恩師が来るんだよ。ちゃんとした婚礼衣装を着ないと、僕が恥をかくことになる。父さんは絶対に頼りにならないから、僕がミホ姉ちゃんの婚礼衣装を用意しないとね」
ミノルはまるでミホの保護者のように言った。実際、父親が行方不明の現在、家長は自分だとミノルは思っている。
「でも……」
それでもミホは新しい着物など贅沢だと思ってためらっていた。
「進学費用なら心配しないでいいよ。大先生だってショウタさんだって貸してくれるだろう。卒業したら高級取りの職を探して自分で返済するから」
確かにミノルを大学まで進学させようと思えば、セイスケやショウタにお金を借りないと無理である。
「わかった。ミノル、ありがとう」
ミホはミノルの買ってくれた婚礼衣装を身にまとって、ショウタの花嫁になろうと決めた。
翌日、小学校まで迎えに行ったミホと合流したミノルは、商店街の呉服店までやって来ていた。
「少し織斑があるのですが、品は凄くいいものなんですよ。織斑も上手く仕立てれば全く目立ちません」
呉服屋の主人が広げてみせたのは真っ白い絹の反物。めでたい鶴が織り込まれている。輝くような美しい反物はとても九エンで手に入ると思えない品だった。
小柄なミホならば織斑を避けて仕立てることが可能だろう。ミホはその美しい反物に魅入られていく。
「これでいいかな。僕に甲斐性があればもっといいものを買ってやれるんだけど」
「ミノル、本当にありがとう。この反物は信じられないくらい綺麗だわ。ショウタさん、喜んでくれるかな」
お金を払っているミノルにミホは訊いた。その声は少し涙ぐんでいる。
「もちろんだよ。ショウタさんは嬉しくて真っ赤になりそうだ」
真っ白い花嫁衣装を着たミホを見ると、ショウタは赤鬼になってしまうのに違いないとミノルは思う。
その日からミホは婚礼衣装を縫い始めた。ショウタと幸せになることを願って一針一針に心を込めながら。
父親に捨てられ、母親を亡くし、借金を背負わされた不幸な身だと思っていたミホだが、優しい弟と素敵な婚約者を得ることができた。
そして、もうすぐ婚約者は夫と名を変える。ミホはその日を待ち望んでいた。
木曜日はショウタの手術日であり、夜勤をして金曜日に朝帰りをする。ミノルは既に小学校へ行っている時間だ。
いつもは玄関まで出迎えに来るミホがいないのを心配して、ショウタはミホの部屋まで確かめに来た。そこで彼が見たものは、真っ白い着物を一心に縫っているミホの姿だった。
「ミホ、これは白無垢か?」
突然ショウタの声がしたので、慌ててミホは顔を上げた。
「ごめんなさい。裁縫に夢中になってしまっていました。朝ご飯はすぐに用意できるから、少し待ってくださいね」
手術日の翌日は空腹で帰ってくるショウタのために、ミホは大量のご飯を炊いて待っていた。
「そんなに急がなくて大丈夫だから。それより、これって婚礼衣装の白無垢だよね。ごめん、俺、気が付かなくて」
ミホたちが一文無しでショウタの家に来たことを知っているのに、正月に結婚式を挙げようと告げただけで結納金も渡していなかった。着物の値段など知らないショウタにも、美しい真っ白の反物が安くはないことはわかる。
「この反物はミノルが買ってくれたの。お給料の九エンでね。私は絶対に幸せになれると思うのよ。こんな素敵な婚礼衣装を着てショウタさんの花嫁になるのだから」
ミホは嬉しそうにショウタを見上げた。
「白無垢を着た綺麗なミホをお嫁さんにもらう俺も、絶対に幸せになるな」
ショウタも微笑みながらミホを見る。
鬼として産まれ、小さな時の記憶を失い、医師として人を助けることだけを目標に生きてきた孤独なショウタは、愛しい婚約者と小さな友人を得た。そして、もうすぐ妻と義弟と名を変える。ショウタもまたその日を待ち望んでいた。




