3.弟ができました
「この風呂屋に、アサイミホという娘はおるか?」
ミホが風呂屋の前で呆然としていると、洋装の男がやってきて、風呂屋の戸を開けてそう訊いていた。
「私がアサイミホですが」
ミホが後ろから声をかけると、その男が振り返る。
「弟のことで話があるから、中央役場まで来てくれ」
少し尊大な態度でそれだけ告げて、男はさっさと歩き出した。
「弟って、誰?」
心当たりがなく首を傾げるミホ。ミホは一人娘で兄弟はいない。母親が死んだ時は本当に心細い思いをした。両方の祖父母は既に亡くなっていて、親戚は誰も助けてくれなかった。あれほど兄弟が欲しいと願った時は他にない。
「俺も近くまで帰るから、中央役場まで送っていく」
ショウタは自動車の後部座席のドアを開けて待っていた。
住むところも職も失った一文無しのミホは、そんなところへ行っている場合ではないのではないかと思ったが、他にどうすればいいのかわからず、ショウタの言葉に従って自動車に乗ることにした。
「乗りかかった船だ。今日はもう仕事は終わりにする。自動車を返してすぐ戻ってくるから、ここで待っていてくれ」
十分ほどで中央役場前に着き、自動車を停めたショウタは後ろを振り返ってミホを見た。
「でも、そこまでお世話になることはできません」
借金を安くしてもらっただけでも十分世話になってしまったとミホは思う。あのままでは娼楼に売られてしまっていた。それは感謝しているが、ショウタのことが少し怖いミホは、これ以上関わりになりたくないと感じていた。
「あんたをこのまま放り出せば目覚めが悪くなりそうだから」
そう呟きながら自走車を降りたショウタは、後部座席のドアを開けミホを降ろして、再び自走車に乗って去っていった。
両手に全財産である風呂敷包みを持ったミホは、ショウタの意図がわからず不思議そうに見送っていたが、自動車の姿が見えなくなったので、中央役場の中に入っていった。
二年前、町長が変わった時に新築された中央役場は、三階建の立派な洋館だった。ミホは建物に入り受付けで名前を告げると、風呂屋に来た男とは違う優しそうな男が出てきた。
「アサイさん、僕はエンドウです。お父さんの同僚だったんですよ、よろしくね。それではこちらへどうぞ」
エンドウと名乗った男は、廊下の向こうを指し示し、ミホを先導するように歩き出きした。
エンドウがミホを連れてきたのは小さな応接室。中には毬栗頭で膝までの絣の着物を着た少年が座って待っていた。
エンドウは少年の横の椅子をミホに勧めて、自らもその前に座った。ミホはテーブルに荷物を置いて指定された椅子に座る。
「ミホさんの弟のミノル君だ。年は九歳」
ミホには役場の男性に弟だと紹介されたミノルに見覚えがないが、父の面影がある気がする。
ミノルは無言でミホを見つめていた。
「父の息子ですか?」
弟という限りそれ以外ないと思いつつ、ミホはエンドウに確認した。
「そうです。今の奥さんとは九年前に入籍済みで、ミノル君もちゃんと籍に入っています。一家三人で隣のオオシタの町に住んでいたのですが、先日アサイ夫妻が行方不明になって、ミノル君が長屋に一人残されてしまったのです。ミノル君は今まで施設で預かっていたのですが、成人した姉がいるのならば、引き取っていただきたいと思いまして、ご足労願った次第です」
エンドウの言葉は慇懃だが、反論を許さない強さがあった。ミホは知らない間に父が結婚していて、子どもまでいることに驚き、ミホを上目で伺っているミノルに目を向けた。
「でも、私には弟を育てる余裕などなくて」
これからどうしたらいいのかさえわからないミホは、弟を引き取る余裕などとてもない。それをエンドウに伝えようとしたが、
「もっと貧乏でも弟妹の面倒を見ている人だって沢山いるのです。まさか、血の繋がった弟を見捨てるなんでしませんよね」
そう言うとエンドウは立ち上がりドアを開け、ゆっくりとミホを見た。出て行けと言っているのは明らかなので、ミホは椅子から立ち上がる。ミノルも同じく立ち上がった。
ミホの持ち物は風呂敷包み二個だが、ミノルは風呂敷包みを一つしか持っていなかった。少し重そうだったが、ミホは自分の荷物もあるのでそのままミノルに持たせて部屋の外に出る。後ろからミノルも続いた。
「尋常小学校の転校手続きはしておきましたから、夏休み明けから第二小学校へ登校させてください。今三年生ですから卒業まであと一年半ほどです。それまでは学校へ通わせてくださいね。お願いします」
受付けのところでエンドウとは別の男から書類を渡され、ミホは頷くしかなかった。
ミホがミノルを連れて中央役場を出ると、ショウタが約束通り走ってきた。
「用は終わったのか? その子はどうした?」
ミホの後ろに隠れているミノルに目を留めて、ショウタは指差しながら訊いた。
「父の子どもなの」
父が借金を踏み倒して逃げたことをショウタは知っているので、それだけで事情を察してくれるとミホは思った。
「兄ちゃん、鬼なのか?」
ショウタの髪や目の色が人と違うのを見て、ミノルは興味深そうにミホの後ろから出てきた。
「まあな」
少し照れたように微笑むショウタ。ミノルは笑顔になる。
「すげー。鬼に会いたかったんだ。角あるんでしょう?」
ミノルはショウタの山高帽を指差した。
「後で見せてやるから、とりあえず俺の家に来い。俺はショウタ。坊主の名は?」
「僕はミノル」
そう嬉しそうに答えたミノルの手から、ショウタは風呂敷包みを取り上げた。
「あ、あの……」
話についていけず戸惑っているミホの手からも風呂敷包みを取り、ショウタは全ての荷物を三段に積んで片腕に載せた。
「ショウタは姉ちゃんの恋人なのか?」
ミノルはミホが独身だと聞いていたので、ミホを迎えに来たショウタはミホの夫ではないから恋人だと思った。
「いや、ただの知り合いだけど」
ショウタはそう答えたが、ミホは今日会ったばかりのショウタが知り合いなのかと疑問に思っていた。
「じゃあ、俺の家へ行くぞ」
ショウタはミノルと手をつないで歩き出す。ミノルは珍しい鬼と知り合えて嬉しそうにしている。
「でも、私は」
「行く所がないんだろう? とりあえず家へ来い」
戸惑うミホにショウタが笑いかける。
ミホは思わず頷いていた。