25.恋をした狼男
言葉の通じない外国の男たちが多数いるので、未婚の若い娘は網元の家へ手伝いに来ていない。食事作りや洗濯を手伝っているのは漁師の妻たちで中年の女性だった。例外は二人のみ。ミホと網元の娘のウメである。
ウメは十八歳の清楚な美女であった。下ろしたままの長い黒髪は艷やかで、きめの細かい肌が美しい。笑顔もとても可愛らしかった。
未知の国への苦難の航海の末、ようやくニッポン近海にたどり着いたと安心した時、台風に遭遇し軍艦が座礁、沈没してしまい、九死に一生を得るという経験したサルトゥーレン号の生き残りたちは、とんでもなく女性が美しく見えていた。
ミホは大恩あるショウタの婚約者であり、異形の鬼と女性を取り合って勝つことができるとはとても思えないので、生き残りの乗組員たちも理性が働くが、ウメの魅力を前にしてしまうと、彼らの理性は風前の灯だった。
大怪我をした仲間が苦しんでいて、ウメたちはその世話をしてくれているのに、こんなことをしている場合ではないと思いながら、彼らはウメを口説く機会をうかがっているのだ。
『貴女は本当に美しい。そして、甲斐甲斐しく怪我人の世話をしていて、心優しい女性だとわかる。貴女は姿も心も女神のような女性だ。私はもう貴女の恋の奴隷である。どうか、一晩付き合ってもらえないだろうか』
ウメが死者に手向けるための花を摘みに裏庭の方に行こうとした時、一人の若い男が声をかけてきた。ニッポンの男が絶対に言わないような美辞麗句を並べるが、もちろんウメには通じない。
大柄な男に迫られて、若いウメは怖くなって後ろに下がる。
それを追いかけた男は、ウメの小さな手を取った。
「あ、あの、離してください」
ウメは懇願するように言うが、その意味がわからない男は、手を振り払われないことに気分を良くしていた。驚きで赤く染まったウメの頬を見て、好意を抱いているのではないかと勘違いまでし始める。
『止めろ! この娘は明らかに嫌がっているではないか。これだけ世話になった娘に、お前は恩を仇で返すつもりか!』
怒鳴ったのは狼男のエルデムである。男は驚いてウメの手を離す。
『この娘は嫌がってなどいない』
男はエルデムに反論したが、嬉しそうにエルデムに駆け寄り、その後ろに隠れてしまうウメを見て、諦めて去っていった。
ウメは昨年まで犬を飼っていた。この地方で有名な真っ白い犬種であるシロは、ウメが三歳の時に貰われてきて、昨年老衰で亡くなった。
灰色の髪の毛から犬のような耳が見え、大きな尻尾のあるエルデムは、見慣れない外国の男性よりもずっと親しみやすいとウメは思う。
「ありがとうございました。とても怖かったのです。本当に助かりました」
エルデムの前にまわったウメは、そう言って頭を下げた。
『こっちこそ仲間が失礼をして済まなかった』
ウメの言葉の意味は理解できないが、礼を言っているとわかったエルデムは先程の男の行為を代わりに謝罪した。
顔を上げたウメはとびきりの笑顔を見せる。
エルデムは心臓が壊れるかと思うほどの衝撃を受けてしまう。今まで女性にこれほどの無防備で無邪気な笑顔を向けられたことがなかった。
吸い込まれそうなウメの黒い瞳にエルデムは魅入られていく。
ブンブンと振り回されているエルデムの尾にウメの目は釘付けだ。シロの姿を思い出していた。
その目には見覚えがあるとエルデムは思う。耳や尾を触りたいと言っていたミノルと同じ目だ。
『良かったら触るか?』
尾をウメの方に向けると、彼女は嬉しそうにそっと触れてきた。
「柔らかい毛ですね」
ウメが耳も触りたいというようにエルデムを見上げる。
『こりゃ、やべぇぞ』
エルデムの顔は真っ赤になっているので、驚いたウメが慌てて手を尾から離し、頭を下げて中庭の方に去っていった。
その後ろ姿をエルデムは呆然と見送っていた。
その夜、エルデムは網元の家の中庭で月を見上げていた。
『はぁ、綺麗な女だったな。俺のことを怖がらないで、笑顔を見せてくれた。あんな女性と恋人になりたい』
その言葉を、休憩をとるため小部屋に向かう廊下を歩いていたショウタが聞いていた。
『ミホのことなら、絶対に駄目だからな。彼女は私の最愛の女性だから』
中庭に下り置いてあった下駄を履いたショウタは、エルデムの側に行き釘を刺すようにそう言った。
『違う、違う。もう一人の若い娘だ。とんでもなく美しい女がいただろう』
『ウメさんのことか? この家の娘だな』
鬼は一途な生き物である。一旦伴侶を決めると他の女性には興味をなくしてしまうが、ウメのことは小さい時から知っているので、ショウタは即答できた。
『ウメという名前なのか? 素敵な響きだ』
意味はわからないが、あの小柄な娘にぴったりだとエルデム思った。
『ウメの笑顔は本当に素敵だし、気配りができる心優しい娘だ。まるで天使のようだ』
『ミホはね、料理がとても上手いんだ。目が大きくて綺麗だし、裁縫だってできる。天使というのはミホのことだ』
『何を言う。ウメが天使だ』
『それじゃ、ミホは女神だな』
ニッポン語では恥ずかしくて言葉に出来ないことも、外国の言葉ならショウタでも甘い言葉を口にすることができる。
もし言葉がわかる者が近くにいたならば、石を投げられていたかもしれないほどの惚気合戦を、ショウタとエルデムは繰り広げていた。
「ショウタさん、ミスターエルデムと何遊んでいるんだ。ちゃんと休憩を取らないと駄目だろう。ミホ姉ちゃんが夕飯を用意して待っているのに」
部屋に現われないショウタに焦れたミノルが探しに来ていた。彼には言葉がわからないが、緩みきった嬉しそうな顔で言い合いをしている二人が少し不気味だと感じている。
「ごめん、今すぐ行くから」
ショウタは慌てて縁側に駆け上がる。
その姿を思案顔でエルデムが見送っていた。
翌日の夕方、ニッポンの大型戦艦スイギョクがその勇姿をクシナカ港に現した。
歩けるほど軽傷の者は、すぐに乗船してスイギョク内で寝ることになった。
スイギョクには医師が三名と看護婦十名が乗船していた。重傷者も明朝には乗船して彼らが治療に当たることになる。
こうして、クシナカでの長い三日間は幕を下ろすはずだった。
『俺は世話になったクシナカの人たちへ恩返しをしたい。だから、除隊を申し出でて少佐に認められた。俺は国へ帰らないでこの地で漁師になる。そして、皆に恩返しをするんだ』
エルデムはクシナカに残るため既に軍を辞めていた。
『言葉もわからないのに、どうするつもりだ?』
ショウタは恩返しをしたいというのはただの名目で、ウメが目当てだと思っている。
『セイスケのところに厄介になって、セイスケから言葉を教えてもらうから大丈夫だ。代わりに力仕事は任せておけ』
セイスケは仕方がないなというように、大きく頷いた。
ショウタを一人前の医師にして独り立ちをさせたが、やはり少し寂しい思いをしていたセイスケは、外国人の面倒くらい見てもいいかと思い始めていた。
その夜、怪我人はスイギョクが運んできた医師に任せて、一行は久し振りにセイスケの家に戻った。もちろんエルデムも一緒である。




