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19.狼男がやってきた

 ダントル帝国が威信をかけてニッポン国に派遣したサルトゥーレン号は、造船されて三十年近くの年数が経っている老朽艦である。装備も十分ではなく、無事ニッポンに到着できるのか疑問視されながらの航海であった。


 海軍内でも極東への軍艦派遣を反対する者が多い中、功を焦った上層部が強引に派遣を進めて、出港することが決まってしまった。

 西洋各国がニッホン国へ船を出し、大使館まで置いている国も出てきている。

 西洋より銀の価格が高いニッポンなので、銀を金に替えるだけで莫大な利益を上げることができた。また、東洋的な美術品や珍しい食材なども多く、新しい貿易相手としてニッポンは注目されていた。ダントル帝国もその流れを無視できなかったのだ。

 しかし、最新鋭の軍艦を出すことは不可能であり、用意も十分ではなかった。

 廃船間際のサルトゥーレン号の艦長は若い優秀な士官だが経験が浅く、叩き上げの副艦長は若き上官に不満を抱いていた。

 


「どんなことをしても止めるべきだった」

 航海士のエルデムは怪我人を脇に抱えながら荒れる海を泳いでいた。もう何人もの乗組員を浜に運んだ。波にさらわれないように小高くなった場所に寝かせると、見慣れない服を着た現地の住民らしい男たちが板に乗せてどこかへ運んでいく。

 エルデムはどこへ連れて行くのか男たちに聞いたが言葉が通じなかった。しかし、こんな嵐の中で怪我人を運ぶのだから、男たちは命を助けたいと思っているのだろう判断し、彼は再び海に戻る。海には彼の助けを待つ者が多数いる。言葉が通じない相手と意思の疎通を図っているほど時間に余裕があるわけではない。



 雷が雲の中を光り一瞬空が明るくなる。

 海へ向かうエルデムの筋肉質の体が浮かび上がった。彼の頭には狼のような耳がついており、水に濡れた尻尾がズボンの臀部から出ていた。彼の体毛は人より濃く、頑丈な体を持つ狼男と呼ばれる生き物だった。

 ニッポンの鬼と同じく、狼男の生息数はごく僅かで、個体ごとに別の不思議な能力を持つ。エルデムはチキュウの地磁気を高精度で感知することができ、新月の時期や厚い雲があっても正確に月の場所を知ることができた。まさに高性能の生きた羅針盤なのだ。

 その能力を活かしてエルデムは軍艦の航海士として海軍で働いていた。


 サルトゥーレン号が無事ニッポン近海まで来ることができたのは、エルデムの能力の功績だと言っても過言ではないだろう。

 

 

 サルトゥーレン号の目的地は、もう少し東北に行ったところにある大きな港町のタテハマ。もう目の前だった。

 予定よりかなり日数がかかってしまい、食料も底を尽きかけてきていた。電信で連絡していた予定日より遅延していて帝国の威信が脅かされている。

 そんな理由で嵐が来ているのにも拘らず航行を続けた。

「艦長を殴ってでも反対するべきだった」

 エルデムは何度目かの愚痴を口にして、激しく波打つ海に潜っていった。



 いつもは漁師の妻たちが漁網を作ったり修理したりする作業場となっている広い板間には、うめき声を上げている怪我人が五十人ほど寝かされている。

 目立った怪我がない者は土間にムシロを敷いた上に寝かされ、屈強な漁師が心臓辺りを掌で押しながら人工呼吸を繰り返していた。この地の漁師たちはセイスケから溺れた場合の緊急蘇生法を教えられている。

 残念ながら運ぶ途中で息を引き取った者は台風で荒れる庭に放置されていた。

 

「獣の耳が生えた凄い男が荒れる海を泳いで船員を救出していた。大きな尻尾もついていたんだ」

 怪我人を運んでくる漁師がそんな噂をしている。ショウタはその話に興味があったが、やるべきことを優先しなくてはならない。


 ショウタは怪我人の服をはだけさせ目を凝らして内蔵と脳を見る。サルトゥーレン号が座礁したあたりは鋭い岩が多く、乗組員の多くは甲板から荒れる海に投げ出され、海面や岩で体を強く打ち骨折や内蔵破裂を起こしていた。


 肋骨が折れて肺が傷ついている者がいる。心臓の動きも僅かだ。ショウタは手術しても助からないと判断する他なかった。辛い作業が続く。


「大変だ! 国道が土砂崩れを起こして通行できなくなった。鉄道も点検のため本日の運行は取りやめたそうだ。救援がしばらく来ない」

 駐在所から警察官が妻の看護婦を伴ってやって来る。時刻は午前二時。とっくに日付が変わっていた。

「医療用品が届かないのか!」

 いくら神の目と手を持つショウタといえども、麻酔や薬がなければ満足な治療ができない。


「朝になって海が落ち着いたら船を出す。心配するな。今は治療に専念してくれ」

 網元は台風が去ったならば船を出すと言う。

 船ならば中央病院まで医療用品を取りに行けるだろう。安心したショウタは命の選別という辛い作業を続けた。



「分院からありったけのものを持ってきた。軽症の者は私が診るから、ショウタは重傷患者を頼む。最後の縫合は私に任しておけ」

 確かに手術の腕はショウタの方が上かもしれないが、セイスケには長年の医師としての経験がある。落ち着いてショウタに命じた。


 セイスケが網元の家へと医療用具や用品を持ち込んだので、ショウタは手術の用意をする。

 清潔な長い白衣を着て、消毒薬で手を洗った。

 漁師の妻たちも集まってきて、熱湯消毒用の湯を大鍋で沸かし始める。

 台風はようやく遠ざかっていき、雨も風も随分と落ち着いてきた。


 ショウタとセイスケの長い戦いの時が始まる。



 ショウタとセイスケが出ていってからミホは一睡もできず、ぐっすりと眠っているミノルを見つめていた。

 雨戸が閉まっている暗い中では時間はわからないが、外が随分と静かなので台風が通り過ぎていったのがわかった。


 ミホはこれ以上眠るのは無理だと判断して布団から起き出す。広間へ行き大時計を確かめると午前四時になっていた。


 玄関の戸を叩いていた男は、船が転覆してたくさんの怪我人が出たと叫んでいた。ショウタもセイスケもすぐに帰って来られないかもしれないと思ったミホは、二人のために朝食のおにぎりを運ぶことにした。


 台所から裏木戸を開けて外に出てみると、まだ薄暗いが星がまたたいていて天気が良いことがわかる。大きく伸びをしたミホは、気合を入れて朝食の用意を始めた。  


 セイスケの家にある一番大きな釜でご飯を炊くことにする。

 コメを洗いしばらく水につけて、重い木の蓋を載せてから炭に火を入れた。

 ミホが台所を漁ると梅干しと鰹節を見つけた。板海苔もある。

 氷式の冷蔵庫には卵が入っていたので、卵焼きを作る。

 

 お重と風呂敷を用意して、ご飯が炊きあがるのを待つミホ。時刻は五時をまわっていた。

「ミホ姉ちゃん、探したよ」

 いつもは六時頃に目を覚ますミノルだったが、昨夜は早く寝たので朝も早かった。

「ミノル、ごめん。部屋に私がいなくて怖かったよね。雨戸を閉めているから暗いし」

「怖くなんてないけど、ショタさんや大先生もいないから、ちょっとびっくりしただけだ」

 ミノルはミホに怖かったと思われたのが不満そうに口を突き出した。


「大きな船が台風で転覆して怪我人がたくさん出たらしいの。それで、ショウタさんと大先生は港の方へ行ってしまったのよ。これからおにぎりを作って持っていこうと思うの」

 ショウタは大食漢である。恐ろしいほどの怪力を持ち不思議な力を使う鬼は、生命維持に大量の食料がいるらしい。ショウタは絶対にお腹を空かせているに違いないとミホは思う。

 

「ショウタさんはおにぎりが大好きだって言っていたから、絶対に喜ぶな。手土産のまんじゅうも持っていこうよ。甘い物も好きだから」

 ショウタの記憶の始まりはセイスケから貰ったおにぎりの味だった。ショウタにとっておにぎりは特別な食べ物なのだ。


 ミホが火を落として釜の蓋を取ると、台所には炊きたての御飯のいい匂いが充満した。 


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