13.カナエの婚約者
三階の病室でカナエはゆっくりと目を覚ました。
腹部はまだ痛むが、随分と穏やかになっている。
麻酔のために少し意識が混濁しているが、自分が手術を受けたことは覚えていた。
カナエが横を向くと、手術に立ち会った中年の看護婦が聴診器で心音を聞いていた。
病室の隅には椅子が置いてあり、カナエの母親が座っている。父親は同じ階の談話室で待たされていた。兄と兄嫁は入院に必要な用具を家に取りに帰っていた。
「痛みはどう?」
看護婦が事務的に訊く。
「それほどでもありません」
か細い声でカナエが答えた。
「それはそうでしょう。こんなに小さな切開で手術出来る医師は若先生だけよ。若先生は本当に丁寧に縫合していた。あんな風に侮辱したあなたになるべく傷痕を残さないためにね。私は同じ人としてあなた達のことが恥ずかしい。私もあなたが病気になったのが盆だったのを残念に思うわ。盆でなければ、若先生が手術することもなかった。そうしたら、今頃あなたは生きていないかもしれないけれど」
悔しそうに唇を噛む看護婦。
「本当に申し訳ありません。許してください」
手をきつく握りしめた母親が頭を下げた。
「謝るのは私にではないわよ。若先生を呼んでくるけれど、二度とあんなことを言ったら病院から放り出すから」
看護婦にそんな権限がないことはわかっているが、出来ることならば追い出したいと思っているのが本音だった。
カナエは辛そうに目を閉じた。
病室には母親のすすり泣きだけが聞こえていた。
談話室では父親とショウタが話をしていた。他には人はいない。重症以外の患者は家へ帰されていて、三階の入院患者はカナエだけだった。
「手術は成功しました。感染症を起こさなければ数日で退院できるでしょう。カナエさんは臓器が左右反対になっている大変珍しい体の持ち主です。今後のためにも覚えておいてください」
普通ならば右にある虫垂がカナエの場合は左にあった。心臓の音がやや右に寄っているので、事例を知っている医師ならば臓器の左右反転を疑うだろうが、開腹して初めて知って慌ててしまう医師もいるかもしれないとショウタは思う。
腹の中を見ることが出来るショウタだからこそ、今回の手術も落ち着いて対処できた。
「そ、そんな。カナエの体はおかしいのですか?」
「今回切除した虫垂以外は全て健康でしたよ。おかしなところはありませんから、安心してください」
父親を安心させるようにショウタが微笑む。
「本当にありがとうございます」
父親は何度目かわからない礼を口にした。
「若先生。三百五号室の患者が目を覚ましました」
看護婦が談話室にショウタを呼びに来た。
「カナエが!」
急いで立ち上がろとした父親を看護婦が止める。
「面会は若先生の診察が終わってからです。ここで待っていてください」
すごすごと椅子に座る父親。
「すぐに済みますから」
ショウタはそう言って長い白衣を翻しながら談話室を出ていった。
看護婦がカナエの着ている寝間着の前をはだけ、胸の上に手ぬぐいを置く。そして、腹に巻かれていた包帯を巻き取り、右脇腹のガーゼをむき出しにさせた。
ショウタがガーゼを取ると、一スンほどの傷口が現れる。傷は細い糸で丁寧に縫われていた。
傷のあまりの小ささに母親は目を見張った。手術を受けて生き残った人は知っているが、醜い傷痕を見せられていたので、カナエの腹にもあのような傷が残るのだと思っていた。
目を凝らし腹の中を確認するショウタ。カナエは真剣に見つめられて恥ずかしくなり、目を伏せた。
「炎症を起こした部分は全て切除できた。腹の中はとてもきれいになっている。子宮も卵巣も傷ついてないから、子どももちゃんと産める。このまま順調なら五日後には退院できそうだ」
「先生、ありがとうございます。さっきは本当にごめんなさい」
カナエは泣きそうになっていた。ショウタに心無い言葉を投げつけてしまった後悔と、あの痛みが引いていく安堵。そして、ショウタから与えられるひたすらの優しさに戸惑いながら。
「気にするな。あんなことくらい言われ慣れているから。ちょっとしみるから我慢しろ」
ショウタは脱脂綿に消毒液をつけて傷口に塗りつけた。ショウタの言葉通りしみたのでカナエは顔をしかめるが声を出すのは我慢した。
ショウタが新しいガーゼを傷の上に置くと、看護婦が器用に包帯を巻いていく。
「本当にありがとうございました。あのような失礼なことを言ったにも拘らず、娘を助けていただいて、本当に感謝いたします」
母親はまたしてもすすり泣き始める。もうすぐ嫁ぐ娘の傷が思った以上に小さいことと、子を望めることに安堵していた。
それから二日後、ショウタの宿直最終日に、腰にサーベルを吊るした警察官が二人カナエに面会したいとやって来た。
「術後三日目ですから、家族以外の面会は控えていただいております」
看護婦がそう断るが、
「緊急にお話を伺いたいことがあります、医師に立ち会ってもらってでも、カナエさんと話しがしたい」
警察官は引き下がらない。
結局、ショウタが立ち会うことになった。
「この男をご存知ですか?」
警察官がカナエに見せたのは、精緻な男の絵だった。
「タテカワさん?」
その絵はカナエの婚約者にとても似ている。
「タテカワと名乗ったのですね。帝国大学を出た弁護士だと言っていませんでしたか?」
「そう聞いております」
カナエは帝国大学出身の弁護士の婚約者が誇らしかった。お互い愛し合っていると思っていた。
しかし、ショウタの優しさに触れ、カナエは心からタテカワを愛しているのかわからなくなっていた。
心が乱れ不安そうにカナエがショウタを見上げると、ショウタは微笑みを返す。
心が温かくなるような気がしたが、嫁ぐ前の不安による気の迷いだと、カナエは無理やり気持ちを封じ込めていた。
「タテカワにお金を渡しましたか?」
警察官は更にカナエに訊いた。
「タテカワさんが学費を借金していたので、父が二百エン立て替えました。それに、弁護士事務所を開く費用として二百円支援しています」
警察官の表情が曇った。
「あの、タテカワさんに何かあったのでしょうか?」
さすがにカナエは不安になる。
「この男の本名はハナイミツオ。帝国大学卒業証書と司法試験合格証明書の偽造及び、結婚詐欺容疑で逮捕した」
「ひぃ! そんな」
驚いて声を上げたのは母親だった。
「そうですか」
さすがに騙されていたことには落ち込んだカナエだったが、このような気持ちで結婚しなくても良くなって、どこか安堵していた。




