異説 冒険の書
マレタ(地底)から地上に戻ったアルシャマ一行。
紫色の髪を縛り、漆黒の衣装に身を包んだ女暗殺者のカリュカは、紅蓮の髪にターバンを巻いた冒険者アルシャマと一緒に宿屋に泊まっていた。部屋は同じだが、無論ベッドは別々である。そこには誓って一線は超えないというカリュカの意地もあったし、そもそもカリュカはまだ十六才なのである。宿屋の親父もそのへんは弁えているので、どこかの安っぽい劇のようにダブルベッドに案内されたりはしない。
さて本来であれば、不死教団に所属するカリュカによって危険分子アルシャマが殺されて終わる話であった。めでたしめでたし、である。だがしかし、そうはならなかった。
カリュカはアルシャマの後を追って遥か地底へと旅立ち、なんとなく共に冒険し、しなくてもいい危険を犯し、気がつけば第二次マレタ戦役に参加し、マレタ(地底)を暗黒神の復活という絶大な危機から救っていたのである。
それはまるで神話のような出来事であり、事実神話になろうとしていた。現在マレタの三つと一つの国々、マキコ=マレタ、トジコ=マレタ、ツツミコ=マレタ、そして交易都市トレドマドでは、急ピッチでマレタ(地底)の歴史の編纂作業が行われていた。
曰く。マレタにアルシャマ(とカリュカ)という名の来訪者あり。その者、伝説の武具を手に、一大演劇「メクセトと魔女」を成せり。神々いたく感動のあまり、第二次マレタ戦役へと参加する運びとなりにけり。
あえて説明すれば、このメクセトいう魔人は、史上最強最悪の人間の王である。キュトスの姉妹の一人、ムランカを飼いならし、無数の神滅ぼしの武具を鍛え、ついには天空に居る神々に喧嘩を挑んで千と三十二柱の神を滅ぼした伝説の魔人である。あくまで伝説である。こんなのがいっぱい実在したら世界が終わる。否、一匹でもやばかった。なにしろあの獅子王率いる絢爛都市国家ハイダル=マリクを、一夜にして焼き滅ぼしたとまで伝わっているのである。
「メクセトと魔女」は、なんというか、そんな彼の傍若無人な生き様と死をあらわした劇であった。それを、後の劇場王ローエン=エングリンが再解釈し、書き下ろしたのである。「新約メクセトと魔女」とでもいうべきその劇は、地上の神々をも唸らせる劇魔術へと進化を遂げていた。キュトスの魔女の二柱、ラヤロップとコキューネーの協力もあり、またマレタを救うために集結した英雄たちの協力もあり、結果として暗黒神は粉砕された。めでたしめでたし。
で、重要なのはそこではない。
地上に戻った今、カリュカはメクセトや暗黒神のことなど知ったことではない。
ここで重要なのは、カリュカが気にしているのは、そこでアルシャマによって行使された「伝説の武具」のほうである。
いわば世界の吐いた嘘。ありえぬがゆえに存在するもの。「銀の弾丸」が込められた「豪華絢爛の飾り銃」。金銀の刺繍が施されたそれは、グリップの底に古臭い字で「我こそ伝説」と彫られたそれは、どんな魔女でも神々でも、一撃のうちに消し飛ばす膨大な魔力を秘めていた。
ただの器用な冒険者であり、人間だったアルシャマが神話となった所以である。
「で、その銀の弾丸はどうしたんだ?」深夜に発せられたカリュカの声は、底冷えしていた。それは質問というより尋問だった。返答次第ではアルシャマは血の海に沈む。
「あれは、売った」アルシャマはいけしゃあしゃあと言い放った。
「残弾一発。使えば終わり。そんな物騒なもん持っててもしょうがないから、紀竜デザーネンスのじいさんに売っ払って、かわりに別の物を買ったんだよ」アルシャマは平然と答える。まるでそうすることが至極当然であるといわんばかりに。
ランプがちらちらと揺れる。
「売って、それで、何を買った?」カリュカの声は暗殺者のそれであった。その手には短剣が握られ、カリュカには平然とアルシャマの首を掻く覚悟があった。あったはずだった。その決意が、ちらちらと揺れる。
「冒険の書だよ」
ベッドの上に置かれた一冊の古い本。指先で示され、その言葉の意味が理解されると同時に、カリュカに雷撃のような戦慄が走った。それは間違いなく、不死教団が追い求める「秘宝」の一つだ。実在するかどうかも怪しいと言われる「伝説のアイテム」。それを使えば、もし正しく理解した上で扱いさえすれば――永遠が――すなわち事実上の不死が手に入る。
なぜなら冒険の書は、人生のある時点での「セーブ」を可能にするアイテムだからだ。「セーブ」さえあれば、死など何の障害にもならない。幾度でも、セーブ地点に巻き戻り、繰り返される人生。その人が送るであろう人生の、無限の可能性の探究――すなわち不死。まさしくチートアイテムである。合法的に不死を目指す健全なる不死教団にとって、究極の目標である不死を安易に叶えるそのアイテムの存在は、あまりにも危険すぎた。
ここでアルシャマを殺すしかない。カリュカの揺れた心が定まる。しかし。
暗殺者の操る暗殺という技は、相手の行動に対する反撃技である。アルシャマに敵意が無い現状では、繰り出すことが出来ない。
次第にアルシャマとの距離が狭まる。一撃必殺の距離まで近づく。一触即発の距離まで近づく。もしアルシャマがカリュカを疎ましいと思えば、それはそのままアルシャマの敵意となって、その喉首を抉る一撃を導き出すはずであった。だが。
ごく自然に、アルシャマはカリュカの身体を抱え、その口唇を奪った。何の脈絡も無く、まるで自分から近づいてきたほうが悪いのだとでも言わんばかりに。カリュカの思考はそこで完全に停止した。全身が硬直し、目を見開き、短剣を取り落とし、あまつさえ体を預けた。朦朧とする意識が現状を理解しようと試みるが、うまくいかない。それはまるで熱病に浮かされたようで。アルシャマと密着した状況から、どうしても逃げられない。
「なあ、カリュカ。とりあえず使ってみようぜ」
そんな見え透いた悪魔の誘惑に、カリュカは抗うことができない。
手をきつく握られ、本の上へと導かれる。一組の男女の手が翳されると、空中に無数の古代文字が浮かぶ。
「これまでの冒険を保存しますか?」疑問形を示す古代文字。
そこでアルシャマが「はい」を選ぶと、世界がぐるりと反転し、アルシャマとカリュカは――眠りについた。
気が付くと、朝だった。前日の記憶が無い。確か短剣を握ったところまでは覚えているが、その先を覚えていない。短剣に手をかけたということは、いつもどおり、昨日はアルシャマを殺そうと考えていたはずだ。が、その動機が思い出せない。否。思い出しても無駄だ、と直観が伝えていた。もう事は成されてしまったのだ、と。もはやアルシャマは不死身の存在となったのだと。そして己も、カリュカもまた――くしゅん。おかしい。寒い。風邪でもひいたのだろうか。そうしてベッドから身体を起こすと、カリュカは自分が素っ裸であることに気付いて。抑えきれずにあらん限りの絶叫を上げた。その声は銃声の如く宿屋中に響き渡り、客という客が目を覚ましたが、アルシャマはまだ寝ていた。
かくして「セーブ」は成された。
冒険者アルシャマのその目覚めが神話となるまで、あと、もう半歩。