73. 劇の始まり
暗がりの中を、ミュトスとシズネリは飛んでいる。
魔女がデッキブラシに跨るとなぜ飛べるのか、ツツミコの魔女の間でも謎とされている。
「で、エンペントリカの奴はどうなったんだ?」ミュトスが訊く。
「地上の月になった」シズネリはホワイトボードで会話する。
「そうか……」ミュトスは少し残念そうな声で呟く。
友とまでは呼べないが、古い知人を失ったことには変わりない。
場所から場所にしか自由に移動ができないトワレのために、臨時キャンプを、「場所」を構築するのが、当初の計画だ。
暗黒神と一体化したエンメントリカは帰ってこない。
情報を持ち帰れるのはトワレだけである。
そして、その情報次第では、ミュトスとトワレは、どちらの陣営につくかを決意しなければならない。
シズネリは、マレタが滅ぶとの予言を得ていたが、言わなかった。
現在の地底には、アルシャマという不確定要素がある。あるいは――未来は変わるのかもしれない。
そして、トワレは現れた。
情報は――エンメントリカが暗黒神の主導権を握れたかどうかは――判断不能。
三体のヘカトンケイルは再生しつつあり、暗黒神に先立って活動を開始するという。
彼らの結論は――静観。だがトワレらは、最悪の結果を予想していなかった。
最悪の可能性
――それは暗黒神と融合したエンメントリカが、暗黒神に人間の、魔女の知恵を与えてしまうことだった。
どういうやりくちで人が絶望し、どういう方法で神々や竜や猫が降参するかを、暗黒神が知ってしまうことだった。
神々に流れる時間は、本来一定ではない。
これまで寝てばかりいた暗黒神は、ついに起き出し、人間の時間に基づいて物事を認識するに至った。
暗黒神はその歓喜に吠えた。
いまや世界は人間のようにも見え、人間のようにも感じられたからである。
暗黒神は初めて、自分の復活を認識した。
槍から解放されたヘカトンケイルたちが、冒涜の神々のしもべたちが、行動を開始したのは、そのときである。
「さあ、劇の台本はすっかり仕上がった。かがりびを焚き、劇を始めよう」
とガラーナ卿は言いました。
卿の身体から湧いたたくさんのコウモリたちが、トレドマドの家々それぞれの戸口まで出向いて、こう言いました。
「劇がはじまるよ。劇がはじまるよ。お代は見てのおかえりだ。さあさあ暗やみに困った人間よ。トレドマド劇場へと来なさいな」
それぞれのコウモリがあんまりしっかり言うものですから、国じゅうの人々は、
それがガラーナ卿の仕業だと知りながらも、怪しみながらも、劇場へと押しかけました。
ローエン=エングリンは、舞台の中央で、カーテンの前に立って、心臓が爆発しそうでした。
「これから始まるのは魔人と魔女の物語。これを観ずして帰ろうものなら、まず一生の後悔をするというしろものです!」
舞台の幕が開き、ひとりの男が現れました。それはアルシャマでした。
身体に六本の手を生やし、その手にはそれぞれ鋭い剣を持っていました。
「余の名は、魔人メクセト。三千世界のすべてを支配する、王の中の王なるぞ!」
そして、銀の弾丸を空へと撃ち出しました。ぱあんという音と共に、空から金銀にきらめく紙片が降り注ぎました。
「紀神も、紀人も、竜も、猫も、御照覧あれ! たえなる魔人メクセトの伝説を!」
劇のはじまりに、人々は喝采を贈りました。そしてその劇場の客席には、主神アルセスの姿もありました。
アルセスは舌打ちしました。
それというのも、この劇が、あんまり面白そうだったからです。
客席には他の紀神の姿もありました。他の神々もわざわざ出向いてきました。
この劇のあることを予見して、あるいは時と空間を超えて、ありとあらゆる神格が劇場の最上段に陣取りました。
ラダムストン作、ローエン監修、劇魔術「ハイダル・マリク」は、かくして昼間の暗闇の中、かがりびに煌々と照らされて、豪華絢爛に始まりました。