32. トルクルトア
ずりっずりりっ。
じりじりと燃える蝋燭を手に取り、ローエンは音の方向を照らし出した。
暗がりが裂け、音の正体が照らし出される。
深夜に名状し難き肉塊が這い寄ってきたとき、普通ならどうするだろうか。
ローエンは即座に芸人の神トルクルトアに真摯な祈りを捧げ、助けを求めた。
地底では、トルクルトアとは神の名であると、そのように伝えられていたのである。
あいにくトルクルトアというのは地上の文化都市の名であり、神の名ではなかった。
なかったのだが、地底の文化を司ろうと虎視眈々と狙っている超常の存在たちは、「トルクルトア」と呼ばれると一斉に自分が呼ばれたものと思い込み、呼ぶ者に競って加護を与えるのが常であった。
そんなわけで超常の存在たちは魔法の視界を用いてこの状況を注視した。
過去に遡って事象を組み立て、何がどうしてこうなったのかを理解した。
理解したわけであるが、結論。
魔女対魔女。絶対に関わり合いになりたくない状況です。超常のものどもは慌てて眼をそらし、最初から見なかったことにして寝たふりを始めちゃったよ。
なので、ローエンは結局その名状し難き肉塊と対面するより他にないのである。
「ローエン……」地底の全てが恐怖で包まれるような声が響いた。
「私のベッドはどこだ?」
「あ、あちらです」
帰巣本能に従って、ラヤロップは宿に戻ってきていた。
ローエンが局所的に記憶喪失にさせられるのは、この日の七日後のことである。
天井考古学者であり、地底民族学者であるオッティアによれば、マレタの芸人たちの根底に流れるトルクルトア信仰は、天井から輸入されたものであると言われている。
古来、天井から落ちてくるものは神託であるとされ、書籍は特に神聖なものであるとされた。戦役により疲弊したマレタにあって、それが宗教のベースとなっていったことは想像に難くない。
ロネ版トルクルトア史の断片は、その中でも最も豪華絢爛な国家の興亡を伝える書物であった。マレタ復興を夢見る芸人たちによって、この断片は理想郷を現した神聖な経典として無数に書き写され、内容は徐々に変貌を遂げていった。
トルクルトアが神の名となったのは、そんなわけである。
と、嘘吐きオッティアの血を引く学者オッティアは意味不明な主張を繰り返しており、依然として動機は不明。