30. 耳鳴り森
アルシャマを首を掴んで引き止めたときには、もうだいぶその森の中に入ってしまっていた。
この森はおかしい。そのことを告げようにも、アルシャマは家ほどもある巨木の谷間をめちゃくちゃ嬉しそうにひょいひょいと進んでいってしまう。
必死に声を張り上げても意味はなかった。この森には、音が無いのだ。
(アルシャマ!この森は変だ!)
(そうかもしれないけど、この先がどうなってるか見たいじゃん?)
(わざわざ危険に首を突っ込むな!)
(だって俺、冒険者だし?)
(アルシャマ死ね!)
アルシャマとジェスチャーで会話できてしまった。なんで以心伝心なのだろうか。
私は暗殺者のカリュカ。いまはなぜか地底にいて、アルシャマと超A級の危険地帯めぐりをしています。
振り返ったが、森の入口は見えない。やはり迷子になったらしい。泣きそうなのを隠すため、とりあえずアルシャマを殴った。
アルシャマたちに最初に気付いたのは、一匹の蜘蛛だった。
特殊な進化を遂げた伝播糸の網を伝わる反響波は、減衰せずに広がり、集まり、蜘蛛の脚の先端部をくすぐる。
蜘蛛の頭には、アルシャマの姿がはっきりと視えていた。
(ようやくぶりの餌ですよ。逃がしゃしねーですよ)
くつくつくつ。
蜘蛛は音もなく嗤いながら上体を持ち上げ、すらりと伸びた上上肢で前髪を払った。
蜘蛛――彼女は自分をアウラウと呼んでいる――は音もなく獲物に近づき、背後を取った。
獲物は目の前にいる。はずだ。
――いない。
二体の獲物が消えていたのでアウラウは驚いた。
(木の葉の音すら聴こえないここで、アウラウに気付けるわけねーですよ。どこに隠れたですよ?)
記憶を引っ張り出して、アウラウは答えを出す。獲物は上か下に逃げた。それしかねーですよ。
アウラウは首をぐいと突き出して樹上を見上げる。
案の定、だいぶ高いところではしゃいでいるアルシャマがいた。
「うひゃひゃ!なかなか絶景だぞ!来ればよかったのに」
『おい、なんかそっち行ったぞ』
「なんかって何だ?」
『知るか。襲われて死ね』
アルシャマはひょいと下を見る。だいぶ距離があったが、偶然登ってくる途中のアウラウと目が合った。
アウラウがぎょっとしたときには、アルシャマは既にパチンコを取り出して引き絞り、口元は楽しそうに笑っていた。
「必殺!アルシャマシュート!!」
アウラウが樹から落ちる前に見たのは、アルシャマが必殺技っぽい名前を叫ぶときの口パクだった。
アウラウは正しかった。
アルシャマは樹登りすると言い張って上にいたし、カリュカは念のため下に隠れていて何か来ないか見張っていた。
(なんで気付いたですよ!?ありえねーですよ!!)
縄で縛られたアウラウがじたばた暴れていて、カリュカ的に見た目が五月蝿い。
ボデーランゲージが通じるかは分からなかったが、カリュカはいちおう試みた。
この蜘蛛もある意味、アルシャマの犠牲者(?)なのだ。奇妙な連帯感がある。
「アルシャマがずっと震えてる変な糸をみつけてさ、それ使って糸電話作ってから樹に登っていったんだよ。あいつバカだけど無駄に器用だから……」
アウラウは自分の糸で出来た道具を見つめ、次に樹上のアルシャマを見上げた。
カリュカが見たところ、アルシャマは何か巣作りを始めているようにも見える。
樹上で寝るつもりかよ。
蜘蛛は急に暴れるのをやめて静かになった。
百聞は一見に如かず。アルシャマの性質を一目見れば、たぶんボディーランゲージは不要なのだ。
アウラウが暴れ出すのとアルシャマの糸電話が震え出すのは同時だった。
『カリュカ!なんか赤くてでかいのが来る!』
(「霧喰い」ですよ!縄を解いてくれです!このままだとみんな死ぬです!)
カリュカは直感でアウラウの顔色がヤバいことに気付いた。ナイフ一閃を走らせてアウラウの縄を切る。
アウラウはすぐにカリュカに背中に乗るよう言うと、やたらめったらな速さで跳躍を始めた。
(あっちの奴のことは諦めるです!「霧喰い」はヤバすぎるです!)
アルシャマは、巨大な赤い霧が――大樹の存在を無視してこちらに突き進みながら――口をぱっくりと開けるのを見ていた。
「ここは喋れる……」
カリュカが目覚めたのはベッドの上だった。
「俺は森の外に出たのか?あの蜘蛛は?……あとかなりどうでもいいけどアルシャマは?」
「アウラウさんは別のところにいますよ。アルシャマさんも無事です」
ケケリリが答えた。
「!? 誰だ! どこにいる?」
カリュカがベッドから跳ね起きて床に着地すると、ムギュ、という変な音がした。
「……ここは……応接間……だから……喋れる……んですよ……」
足下から声がしたので、カリュカはソレを拾い上げた。