[2]「優しい眼」
大混乱である。
いや、教室内や集まった連中が、ではなくて、俺が。
……いや、控えめに言って、教室内も大混乱ではあったのだが。
そりゃあそうだろ。たった一日で学年中を席巻した噂の金髪美少女が、それを目的に集まった衆人環視のただ中で、俺みたいな冴えないチビに声を掛けてきたのだから。
それどころか――校内を案内しろ、だと。
しかも彼女は、俺の代わりを申し出た奴や、ついてこようとした連中を、尽く遠ざけた。言い方や表情は柔らかかったが、そこには有無を言わさない迫力があって、結局、誰も彼女に逆らうことが出来なかった。
……俺も。まるで蛇に睨まれたカエル状態で、或いは首根っこを捕まれた仔猫の心境で、笑顔の彼女に連行されていくしかなかったのである。
ろくに口もきけぬまま、各種特別教室や保健室、学食や中庭に連れ回されて――『生徒立ち入り禁止』の張り紙がされた屋上前で、彼女は妙にがっかりした。
「日本の高校生は、恋人と屋上でランチするって聞いてたんだけどナ」
そんな言葉に思わず苦笑した。間違った日本観てのは、どこの国にもあるらしい。
「……やっと笑ったネ?」
俺の顔を覗き込むようにして、彼女は言った。
「えっ?」
ふいな言葉に、思わず声が漏れた。
「だって、ずっと怖い顔してたヨ? 嫌われちゃったのかと思っタ」
そう言って、彼女はどこかあどけなく笑う。
……気のせいだろうか。教室にいた時よりも、表情が柔らかい気がする。
それに、喋り方も、なんか。
――いや、今はそれよりも。
「きっ、嫌うも何もっ……俺、ハイリガーさんのこと、何も知らないしっ……」
何とか、しどろもどろの言葉を吐く。
その間も、彼女はじっと俺の眼を覗いてくる。……お国柄なんだろうか。
どうしようもなく眼を逸らしたい衝動に駆られるが、彼女のまっすぐな視線はそれを許さない。
……あ。瞳まで金色なんだ。
「――シシィ、だヨ」
そんな言葉が俺の思考を遮った。
「シ……シィ……?」
意味も分からずに反芻する。
「そう。ワタシの名前、エリーザベト。ドイツではみんな、シシィって呼ぶかラ」
そこまで聞いて、ようやく理解する。つまりそれは、彼女の愛称なのだ。
「でも……えと、いいの? 俺なんかが、その……馴れ馴れしく、さ……」
この期に及んで女々しいことを――と言われそうだが、非リア民の習性である。
そんな俺に、彼女は屈託なく笑った。
「もちろんだヨ。……だから――アナタの名前も、教えテ?」
言われて気が付いた。俺は、彼女に名乗っていない。
俺は慌てて居住まいを正した。
「えっ……と、俺は巽……巽、一」
「ハジメ? ――あア」
「イチのことネ」と彼女――シシィは笑った。
「じゃあ――アイン、って呼んでもイイ?」
「アイン?」
「ドイツ語で、イチのこト」
「ああ、なるほど」
聞き慣れない言葉に小首を傾げたが、簡潔なシシィの言葉に納得する。
けれど、それが答えになっていないと気が付いたのは、もう一度彼女に問われてからだった。
「……イイ?」
不安そうにはにかむ彼女に、一も二もなく頷いた。
「あ、ああ、もちろん! 俺も、その……し、シシィって、呼ばせて貰う、から、さ」
そんな俺の言葉に、シシィはにこりと笑う。
何だか、頬が熱くなるのを感じた。
……俺って、惚れっぽいんだろうか。
自己嫌悪にも似た感情を抱いたが、
「……アインは、優しい眼をしてるネ」
ぽつりと紡がれたそんな言葉に、つまらない考えは霧散した。
「ふえ!?」
思わず間抜けな声が漏れてしまった。
「っ……なにその声、オカシイ」
くすくすと、楽しそうにシシィは笑う。
俺は気恥ずかしい思いでいっぱいだったけど――笑う彼女を見ていたら、すぐにそんなことはどうでも良くなってしまった。
不思議と穏やかな気持ちで、
「……シシィも、優しいと思うよ。それに……とても綺麗だ」
そんなことを口走っていた。
「……ホント? 私、キレイ?」
どことなく気恥ずかしげなシシィの声にハッとした。
「あっ、いや、そうじゃなくてっ……って、いや違くもないんだけどっ、なんつーか、ええとっ――……眼っ! そう、眼が!」
「眼?」
「うん! 金色で、光ってるみたいでさ、神秘的って言うか、とにかく綺麗だよ、うん!」
「……そウ?」
何故だか、シシィは俺の言葉に複雑そうな顔をした。
怪訝に思っていると、彼女は自嘲的な笑みを浮かべて言った。
「……こんな眼の色のヒト、どんな国にもいなイ。ワタシの眼、おかしいっテ……気持ち悪いっテ、みんな言うかラ」
「そんなことないよ」
「エッ?」
少しの迷いもなく言った俺に、シシィは眼を丸くした。
しばらくの間、きょとんとした顔で俺を見て――
「……やっぱり、優しいネ」
そう言って、笑った。
何だか、俺がとてもおかしい人間のように言われている気がして、どうしようもなく気恥ずかしかったけれど――仕方ないじゃないか。
――だって、ほんとに綺麗だと思ったんだから。