[18]「いんなき伝承」
「――ごめんなさい、お待たせしてしまって」
応接室のドアが開いて、杜愛先輩が姿を見せた。
その姿に、少しどきりとする。
先輩は白が眩しいバスローブ姿で、長い髪は未だ雫に濡れたままだった。
昨夜からずっと、シシィの『隠れ家』で「腹を割った話し合い」とやらを続けていた先輩は、入浴することもままならなかったらしい。
つまり俺は、この乾家の応接室で、先輩が入浴を終えるのを待っていたわけである。
「これでも急いだのですけれど、退屈させてしまいましたよね……」
そう言って、申し訳なさそうにしゅんとする先輩。
俺はハッとして声を掛けようとしたが、
「ハイハイ、そんなのは後でいいかラ、ヒトマズ落ち着きましょーネ」
「おにーたーん、ただいまぁー♪」
なんて、先輩の肩を押して後ろから顔を出すシシィと、扉の隙間から滑り込むようにして俺の方へ駆けてくる未愛ちゃん。
シシィもまた先輩と同じ揃いのバスローブ姿、未愛ちゃんは未愛ちゃんで、犬科の動物を模した耳付きフードが可愛らしい、子供用バスローブを纏っている。
「わんわんっ♪」
「おっとっ……お帰り、未愛ちゃん。……お姉ちゃんたち、ケンカしなかった?」
子犬みたいに駆けてきた未愛ちゃんを受け止めつつ、シシィたちへのからかい半分に尋ねてみる。
未愛ちゃんはにこっと笑って、
「うん、仲良くみんなで洗いっこしたよっ♪」
なんて、とても夢のあることを言った。
けど、俺が良からぬ妄想をするよりも早く、シシィが先輩を部屋に押し入れつつ言った。
「それは、ワタシたち、もうケンカなんてしないって誓いましたかラ。こうして、おフロで親睦も深めたことだシ♪ ネ、トア?」
「……不本意ですが」
明るく笑うシシィに対し、先輩はあくまでも複雑そうに眉根を寄せる。
だが、シシィはそんなことには構わずに、嬉々とした顔で続けた。
「凄いのヨ、アイン! トアの家のおフロって、オンセンなんだって! それに、凄く広いノ! まるでギリシャやローマのテルマエみたいネ!」
「そ、そんな大層なものではありませんよ。浴室が広いのは、かつてはこの家にも家人が多かったからですし、温泉と言っても火山性の大規模なものではなく、『乾』の祖が井戸の掘削中に偶然湧き出しただけの代物です。湧出量も多くなく、個人利用が精一杯なのですから」
「そんなノどーでもいいヨ、とにかく気持ちよかったんだかラ! アインも今度一緒に入ろ! 背中流してあげるヨっ♪ ニッポンでは『裸の付き合い』って言うんだよネ?」
「なっ!? だめですそんなことっ!」
「何デ? トアはアインと一緒におフロ入りたくないノ?」
「それはっ――……興味は、ありますが」
「なら、いいじゃなイ。今度はみんなでおフロってことデ♪」
「……そ、そう、ですね、一度、くらいなら」
……籠絡されないで下さい先輩。
と、心の中で激しく脱力したそんな時、開いたままの扉からもう一人の人物が姿を現した。
人数分のアイスコーヒーらしきグラスを盆に載せた、枯部さんだった。
彼女は部屋中の騒々しい人々を余所に、淀みなくてきぱきとグラスをテーブルにセットするや、一礼して部屋の片隅へ控えるように立った。
それに後押しされるように、先輩が苦笑して言った。
「……それでは、そろそろ本題へ入ることに致しましょうか」
先輩の号令で、各々がソファへと腰を落ち着ける。
俺の正面に先輩。
左手にシシィ。
未愛ちゃんは――何故か、俺の膝の上によじ登っていた。
その上、俺が何かを言うよりも早く、眼の前のアイスコーヒーにガムシロップとミルクをだばだばと入れて、ストローでぐるぐるかき混ぜて、
「はい、おにーたん♪」
なんて、可愛らしく俺の口元に勧めてくるわけである。
遠慮するわけにもいかないので、差し出されるままに口を付ける。
甘い。凄く甘い。……けどまあ、元々こう言うものだと思えば、まあ。
「おいしー?」
「……うん、甘くて美味しいよ」
「~♪」
無邪気に尋ねてくる未愛ちゃんに笑顔を返すと、彼女もまた笑顔で応えて、手の中の甘いアイスコーヒーを美味しそうに飲み始めた。
不安定な姿勢で俺の膝に座る彼女を、半ば無意識に抱いて支えてやっていると、正面と左手の二人が微笑ましげに笑っているのが見えた。
だが、俺が気付いて視線を送ると、先輩は咳払いを一つして改めた。
「……巽くんに聞いて頂きたいのは、大きく分けて三つ。『乾』のこと、『犬鳴』のこと、そして」
「――私のことね」
先輩の言葉を継いで、シシィも話す。
「でもまあ、私のことはオマケみたいなものだし、ひとまずトアにお任せするわ」
「言われなくともそうします。話の腰を折らないで下さいね」
ぴしゃりと先輩に言われ、「はいはい」とシシィは首を竦める。
一つ深く息を吸って、先輩は続けた。
「――明治初期。この国がようやく諸外国に門扉を開き始めたその時代、一人のドイツ人医師が、この『犬鳴』の前身である小さな村に渡来しました。
と言っても彼は、この国で医療に従事しようとしていたわけではなく、東の外れのこの島国で、ひっそりと隠遁生活を送ろうと考えていたのです。
そうして隠遁場所に選んだのが、当時、禁足地としてほとんどヒトの手が入っていなかった、とある鬱蒼とした杜――現在の『犬鳴杜』だったのです。
彼が密かに杜に住み着き、しばらくは何事もなく時が過ぎました。
しかし、間もなく村に、とある病が蔓延します。
当時の記録を現代の医学に照らし合わせると、どうやらこれは『狂犬病』だったようですが――『狂犬病』と言えば、現代でも発症後の致死率が99%を越える難病ですし、当時はその予防法すら確立されてはいませんでした。
維新後間もない日本の小村に、そのような難病に立ち向かう余力などなく、村は壊滅を待つだけと言う状況にまで追い詰められました。
しかしその時、もうヒトには拘わるまいとしていた世捨て人たるドイツ人医師が、重い腰を上げ村に救いの手を差し伸べたのです。
彼は、当時まだ公式にはワクチンさえ開発されていなかった奇病を懸命に治療し、また予防法を啓蒙して回り、その甲斐あって、村は何とか壊滅の危機を免れました。
その後、一躍村の英雄となった医師は、素朴な村人たちから神の如く敬われ、やがて、周辺地域のあらゆる分野に影響力を及ぼすようになります。
いつの頃からか、医師はヒトビトに『いんなき卿』と呼ばれるようになり、彼の下に繁栄した村は『いんなき村』、そして時代の変化の中で――『いんなき卿』の家は『乾』と、『いんなき村』は『犬鳴町』と名を変えることになります。
……即ち、それが――『乾』と『犬鳴』の、成り立ちになるわけです」
そこまで話して、先輩は一息つく。
詳細は覚えていなかったが、その話の大凡は俺の記憶していた通りだった。幼少に聞かされた、いわゆる、『いんなき伝承』だ。
だが、それを俺に話して先輩はどうしようと言うのだろうか。
確かに、俺の不自由な記憶力では『いんなき卿』が医師だったり、『狂犬病』が何だったりなんてことまで覚えちゃいなかったけど、それが何か重要だったのだろうか。
分からずに小首を傾げていると、そんな俺に気が付いて、先輩はそっと微笑んだ。
「今さら、って顔をしていますね。その通り、こんな話は、犬鳴で育った人間なら誰だって知っています。今さら、勿体ぶって話すようなことでもありません。……重要なのは、これが『表向きの話』でしかない、と言うことなのです」
つまり、それは――
「……何か語られていない秘密がある、ってことですか……?」
おずおずと問うと、答える代わりに先輩はにこりと笑った。
その笑顔が何だか恐ろしくて、思わずごくりと生唾を嚥下する。
そんな俺に、先輩は薄く微笑んだまま、試すような口調で言った。
「……巽くんは、こんな話を信じられますか? 例えば――『いんなき卿』が、実は人間ではない、人知を越えた別のイキモノだった……なんて」