[17]「朝靄が隠す闇」
……朝が来た。
それは当たり前のことだ。
その日に何があろうと、夜が明ければ朝が来る。それは当たり前の世の真理。
だから、たとえ一睡も出来なかったとしても、俺は朝が来れば条件反射のようにベッドを出て、顔を洗い、制服に袖を通し、学生鞄を片手に家を出る。それが当たり前。
……いつもより、随分早い出発だったけれど。
今日は少しばかり、靄が出た朝だった。
もう五月だってのに随分と肌寒くて、素朴な犬鳴の町並みも良く見えない。
朝靄のかかる町に人影はなくて、まるで俺一人、異世界に迷い込んだかのようだった。
――それもいいかも知れないな。こんな空虚な思いをするくらいなら。
……そんな子供じみた妄想が脳裏を過ぎって、苦笑する。
瞬間、ふと、白い靄のスクリーンに何かが映った気がした。
――アインには、ちょっと遠慮して貰いたいかナ。
――わたくしも、正直まだ心の準備が出来ていません。
スクリーンに映った影が、口々にそんなことを言う。
別に、不思議でもない台詞だったろう? 俺と彼女たちは別に特別な間柄だったわけでもない。出会ったばかりのクラスメートと、話せるようになったばかりの先輩。それだけだ。
……いや、それもただのごまかしか。
何てことはない。二人に拒絶されたことが、思いの外ショックだったんだ、俺は。
こんな早朝から、独り朝靄の中を歩いているのだって、「もうあのヒトは俺を迎えになんて来ない」って言う現実から、顔を背けたかっただけなのだ。
「……かっこわりぃ」
自分の女々しさがおかしくて、誰もいない朝靄の中、俺はもう一度苦笑した。
――と、そんな時だった。
誰もいないはずの朝靄の中から、車のエンジン音が響いてきた。
……いや、誰もいない、と言うのは俺がそう思っていただけで、幾ら早朝とは言え公道なのだから、車やヒトの通りがあってもおかしくない。むしろあって当然だ。
だから、多少驚きはしたものの、別段奇妙にも思わず、前方の朝靄を抜けてくる車両の邪魔にならないよう、俺は静かに道の端に寄った。
やがて現れた黒塗りの高級車は、俺の横を抜けて通り過ぎる。
そう言えば、杜愛先輩の車も同じような高級車だったな――そんなことを考えていると、ふいに背後でけたたましいブレーキ音がした。
まさか、本当に先輩だったのか? そう思いながら振り返る。
――だが、慌ただしく扉を開けて降りてきたのは、先輩ではなかった。
それは、黒服の男たち。黒のスーツに、黒のサングラス。
彼らを、奴らを、俺は知っている。
他でもない。昨日、未愛ちゃんをさらおうとした連中だった。
だけど、何故こんなところに? ――突然のことで体が動かない。頭が働かない。
俺が馬鹿みたいに呆けてるうちに、車から降りた四人の男たちはあっと言う間に俺へと肉薄し――そのまま、昨日とまるで同じように、俺を地面へと押し倒した。
……昨日と違ったのは、地面が固いアスファルトだったことくらいか。おかげで、昨日よりも随分と体が痛む気がした。
「っ……くっ……そっ……! あんたらっ……いったい何なんだっ……!?」
「知る必要はない。――どうだ、こいつで間違いないか?」
痛みに耐え絞り出した言葉は、まるで相手にされなかった。
「ああ、間違いない。測定器の値もほぼ昨日と同じだ」
「ひゅう♪ こいつはすげえな、確かに『覚醒』寸前の数値だぜ」
「だが見たところ、理性を失いかけているようには見えんな」
「ああ、こいつは何かある。『いんなき』の娘を庇い立てしたってのも臭い」
頭の上で交わされる意味不明の言葉。……こんなところでも、俺は蚊帳の外か。
「で、どうするんだったっけ?」
「いっそここで処分してしまうか」
「早まるな、『いんなき』との交渉に使うと言ったろう」
「まあ、交渉に使えずとも研究材料としては面白いだろう」
俺には何も分からない。
杜愛先輩のことも、シシィのことも。
何も知らず、何も分からず、こんな疎外感の中で――俺は、死ぬのか。
死……なんて、現実感のない言葉だ。この年までごく普通に育ってきた俺にとっては、そんなの用のない言葉だった。その言葉の意味だって、ほんとは良く分かっちゃいない。
けど、多分、俺の頭の上で意味不明な会話を続けるこの連中にとって、それはごくありふれた言葉であって、当たり前の現象なんだ。
――きっと、先輩やシシィにとっても。
……ああ、ならいいじゃないか。これで、少しはあの二人に近付くことが出来る。
そんな暗い希望を見出しながら、気が付けば俺は、諦めるように眼を閉じていた。
何も見えない暗黒の世界を臨みながら――何かが、胸の中で燻るような感覚を感じていた。
――だが。
「なっ――ぐわっ……!」
「貴様はっ――うがあっ……!」
ふいな悲鳴。
拘束が解かれた気配にハッとして顔を上げれば――艶やかな長い黒髪と、見慣れたセーラー服の裾が、眼の前で優雅に翻るところだった。
長めのスカートからすらりとした足が覗き、たっぷりの遠心力のかかった踵が、寸分違わぬ正確さで眼の前に立つ黒ずくめの男の顎を打ち抜く。
朝靄の町に乾いた破裂音が鳴り響き――男は木っ端のように数メートルほど吹き飛んで、アスファルトの上に頽れた。……それきり、動く気配はない。
後には、ふうと息をつく、闇色のシルエット。
それはセーラー服を纏った長身の美少女。
――乾杜愛、そのヒトだった。
見れば、そう離れてはいない場所にシシィの姿もある。何やら細い棒状の鈍器を手にしていて、足下には黒ずくめの男が一人。……何があったかは想像に難くない。
事情は良く分からないが――どうやら俺は、二人に助けられたらしい。
「――ご無事、ですか……?」
ふいな問いかけにハッとして視線を戻すと、先輩は俺のすぐ傍に膝を折って、心配そうに眉根を寄せていた。
慌てて身を起こし、軽く腕を回してみる。しばらく拘束されていた違和感はあれど、どこも痛むところはない。
何故、二人がこんなところにいるんだろう? だって、この二人は俺を――そんな疑問を抱きながらも、俺は何とか笑顔を作った。
「えっと……大丈夫みたいです。すいません、心配させちゃって――……え?」
ふと、放心したような声が漏れたのには理由がある。
――気が付くと、先輩が俺を抱き締めていたから。
それも、優しいものじゃない。昨夜のような感謝の抱擁でもなかったし、未愛ちゃんにしたような親愛の抱擁とも違う。もっと荒々しい――剥き身の感情をぶつけるような力強い抱擁だった。
「え、え? 先輩っ? あ、あの、そこまで心配してくれなくても、ほんとに平気ですからっ」
真意は分からなかったが、一先ずはそう言って取り繕う。
けど先輩は、細い腕にぎゅっと力を込めて、けして俺を放そうとはしなかった。
「――った……良かった……貴方にもしものことがあったら、わたくし……わたくしは……」
「せ、先輩――え……? 先輩……泣いてるんですか……?」
耳元で、嗚咽のような吐息が聞こえた。
「っ……ごめんなさい、安心したら気が抜けてしまって……っ……いい年をして恥ずかしいですね、わたくしったら……」
「え、いや、そんなこと……ないですけど……何で、そんな」
だって先輩は、俺を、何も知らない俺を――
「――聞くまでもないでしょ、そんなこと。……ニッポンじゃ、『ヤボ』って言うんだっけ?」
そんなことを嘆息混じりに漏らしながら、シシィがやってくる。
……シシィにしたってそうだ。二人は、俺を。
「……ともかく、これでハッキリしたわね。私たちの都合でアインを遠ざけてる場合じゃないって」
「……ですが」
「あのね、トア。ここへ来る前にも言ったけれど――結局のところ、アインを巻き込んだのは私たちの勝手、私たちの我が侭。……だったら、その責任も私たちが負うべきじゃない?」
「――――」
シシィの責めるような言葉に、先輩は俺を抱き締めたまま口を噤む。
だが、やがて諦めたように小さく息をついた。
「……そう、ですね。わたくしも、覚悟を決めなければ……」
呟いて、先輩は静かに俺の体を解放した。
だが、完全に体が離れてしまう前に、まだ息のかかるくらいの距離で、俺の眼を真っ直ぐに見て、先輩は言った。
「巽くん――……貴方は、わたくしを受け入れて下さいますか……?」