[16]「仲間外れの傍観者」
桜ヶ丘さんに案内されリビングに通された杜愛先輩は、脇目も振らず未愛ちゃんを抱き締めた。
「未愛っ……!」
「おねーたんっ……!」
名を呼び合い、しっかりと抱擁し合う姉妹。
「本当に無事で良かったわ、怪我はない? どこも痛いところはない?」
「うん、みあは平気! おにーたんが守ってくれたもん! ……でも、みあのせいで、おにーたんがお怪我しちゃったの」
しゅんとして未愛ちゃんが言う。
と、先輩はハッとして、ようやく未愛ちゃん以外に眼を向けた。
そして俺の姿を認めるや、未愛ちゃんにそうしたのと同じように、まるで飛び付くみたいに俺を抱きすくめた。
よほど一生懸命に走り回ったのか、先輩は少しだけ汗の匂いがしたが――それすらも上等なコロンのように感じるのだから、不思議なものだ。
「巽くん、ありがとう、本当にありがとうございました。未愛が無事だったのは貴方のおかげです、何とお礼を申し上げれば良いのか……」
「いっ、いやっ、でも俺っ、特に何も出来なかったですしっ……! 調子こいて無駄に怪我しただけって言うか、そのっ……!」
先輩の体の柔らかさと薫りに当てられて、思わず上擦ってしまう。
だが、そんな俺の言葉に再びハッとして、先輩は身を離した。
「それで、お怪我は……」
呟きながら、間もなく視線が俺の腕に留まる。
シャツは血でだめになってしまっていたが、取り敢えずは着替えもなかったので、血まみれの袖部分だけを切り取って身に着けている。
だから、包帯の巻かれた二の腕は隠しようもなかった。
「深いのですか? 痛みは? 破傷風の予防接種は受けてますか? あと、ええと」
「いっ、いやっ、大丈夫っすからっ……! こんなのほんのかすり傷ですっ! ――あっ、ほらっ、先輩も昨夜、俺のせいで怪我したじゃないっすかっ! だから、ねっ!?」
奇しくも同じ様な場所を切られていたなあ、とあの時の情景を思い出す。
だが、そんな俺に先輩は一歩も引かずに、過保護な親のような素振りを変えなかった。
「わたくしのことなど良いのです、あの程度の傷、わたくしは一晩あれば綺麗に塞がってしまいますから! でも、巽くんはそんなわけにゆきませんもの! きちんとケアをしないと――まあ! よく見ればお顔にも細かい切り傷がいっぱい……!」
あ、それは――と思ったが、先輩の後ろでぺろりと舌を出す未愛ちゃんはとても可愛かったので、野暮なことは言わないでおいた。
取り敢えず、眉を八の字にして俺の顔を覗き込む先輩がいたたまれないので。
「いや、ほんとそんなに心配しないで下さい! 俺だって男ですから、そんなに心配ばっかされると正直へこみますって……!」
言うと、さしもの先輩もそれ以上のことは言わなかった。
が、代わりに、
「……ですが、『乾』の家を預かる者として、恩には相応に報いなければなりません。何か望みがあれば仰って下さい――貴方が望むならば、わたくし乾杜愛は、何でも致します」
「な、何でもって……」
「何でも、です。……貴方は、それだけのことをして下さったのですから」
俺の手を取って、淀みなく先輩は言い放った。
そんなことを言われても、俺には何を言えば良いのか分からない。……いや、もちろん、思春期の少年らしい願望がないわけではないのだが――それはそれ、である。
現実問題としてそんなこと口が裂けても言えないわけで、俺はただ口を噤む他ない。
――が、そんな俺を余所に、ふてぶてしい声が横合いから乱入した。
「それじゃあ、私のお願いを聞いて貰おうかしら?」
なんて。言うまでもなく、それはシシィ。
「……ああ、そう言えば、貴女みたいな方もいらしたんですね」
半眼で見やる先輩。……言葉のトゲが眼に見えるようである。
「これはご挨拶ね。貴女には不本意かも知れないけれど、未愛ちゃんもアインも、結果的に助けたの私なんですけど?」
「……信用出来ませんわね」
勝ち誇ったような眼で笑うシシィ。
先輩は疑惑の眼差しでそれを見る。
だけど、シシィが嘘を言っていないことは俺と未愛ちゃんが良く知っている。
「せ、先輩、本当なんですよ! シシィが来てくれなかったら、俺もこれくらいじゃ済まなかったし、未愛ちゃんだって……!」
「そうだよおねーたん! シシィのおねーたん、みあとおにーたんを助けてくれたんだよ!」
揃って拳を握り、懸命に先輩へ訴える俺と未愛ちゃん。
先輩はそんな俺たちを困ったような顔で見ると、やがて諦めたように嘆息した。
「……仕方ないですね。そんな顔をされてしまったら、わたくしが悪者のようです。一先ず、ハイリガーさんが二人を助けたと言う事実は信じましょう。ですが――」
言いながら、先輩はこれまでで一番の厳しい眼差しをシシィに向けた。
「……全てを話して頂きます。未愛をさらおうとした者のこと、貴女がこの犬鳴にやってきた理由、昨夜、わたくしに問うたことの真意――巽くんを、どうしようとしているのか」
「……いいわ。確かに、私も言葉が足りなかった。これ以上こじれないうちに、腹を割って話し合っておくべきなのかも知れないわね」
「――それは良いですけれど~、こちらでお茶をしながらにしませんか~?」
ふと、気の抜ける声が緊張する二人の間に割って入った。
声の主は――考えるまでもない。
見れば、いつの間にか部屋中央のソファーセットに、ティーポットにカップ、美味しそうな洋菓子までが揃えられている。他でもなく、桜ヶ丘さんだった。
一瞬で毒気を抜かれたような顔をする先輩とシシィ。やがてお互いに苦笑すると、
「そうね、トアが良ければ、そうしましょうか?」
「ええ、異存はありません。お断りするのは失礼でしょう」
そう言って、ソファーセットの方へと歩を進めた。
俺も当然のように倣ったのだが――
「あ……アインには、ちょっと遠慮して貰いたいかナ」
「そう……ですね。わたくしも、正直まだ心の準備が出来ていません」
二人揃って、そんなことを言った。
ここまできて俺だけ仲間はずれか、としばし呆然とする。
「あら、それなら私と別室で待っていましょうか~?」
なんて言って桜ヶ丘さんは慰めるように俺の腕を取ったが、
「ダメに決まってるでショーっ! いい加減にしなさイっ!」
まあ、一蹴されますよね。
「……何を興奮されてるんです?」
事情を知らない先輩はきょとんとしたが、シシィに何事か耳打ちされると、にっこりと笑った。
「――金輪際、彼に近付かないで下さいませ。この町で暮らしている以上、わたくしの一存で貴女の身などどうにでもなるのだと言うことをお忘れなく」
とても穏やかな恐ろしい声だった。
さしもの桜ヶ丘さんも、
「……ぶー」
なんて唇を尖らせはしたが、大人しく俺から離れて、それ以上は何も言わなかった。
俺も反論する機会を失って、
「表で枯部が待っていますから、先に送らせましょう。……それでいいですね、巽くん」
そんな風に言う先輩に、ただ頷くことしか出来なかった。