[10]「図書室で君と」
無駄に広い図書室の片隅で、その子は独り、外国の古典文学を読んでいた。
昼休みに図書室が自由開放されていると聞いて、何となく足を運んだだけの俺には他に目的なんかなくて、気が付けば、ただ彼女の姿を見詰めていた。
背中ほどの髪を一本のお下げにして、肩口に垂らしている。切れ長の眼は一見冷たそうで、一般的に見て十分に美人だけれど、どこかヒトを寄せ付けない雰囲気があった。
でも、俺は彼女に惹かれた。美人だったからじゃない。良くは分からないけれど――独り窓辺で本を捲る、物静かなその姿に心惹かれた。
何日か彼女の姿を眺めるだけの日々が過ぎて、気が付けばそれは俺の日課になっていた。
そうして、更に幾らかの日々が過ぎて――
「――良かった。巽くん、今日は来ないのかと思っちゃった」
いつしか、そんな風に言って貰える程度には、お互いの距離も近くなっていた。
「ごめんね花登さん、ちょっとごたごたしててさ」
ほっとしたような笑みを向けてくれる彼女に苦笑を返しながら、俺は彼女の隣りに腰を下ろす。
――花登蓮華さん。三つほどクラスの離れた同級生だった。
「ごたごた?」
「……まあ、ちょっとね」
きょとんと小首を傾げた花登さんに、俺は思わず眼を逸らした。
……いや、別にやましいことなどこれっぽっちもないのだが。
花登さんは、歯切れの悪い俺の言葉に少しだけ沈黙して――
「……まあ、いいけど。――でも大変だね、もてる男の子は」
息を吐くようにそんなことを言って退けた。
「なっ!? え、ちょ、な……えっ!?」
咄嗟に言葉が出て来なくて、意味不明な声しか出て来ない。
花登さんは、活字を追う横顔に涼しげな笑みを浮かべて言った。
「聞いたよ。転校してきたドイツ人の可愛い子に、猛アタックされてるんだって。それに、あの乾先輩とも、ただならぬ関係らしいじゃない?」
「ええっ!? ちっ、違うよっ! そんなんじゃないってっ! シシィはっ――」
「図書室では静かにしようね、巽くん」
大慌てで手を振る俺に、花登さんの涼しげな声。
むしろその涼やかさが怖い。
……いや、恐ろしいと思う理由なんて、ないはずなんだけど。
――少なくとも、今はまだ。
とは言え、本能が弁解せよと告げているわけで。
「っ……あの、違うんだよ、シシィは……その、外国人だから変に積極的と言うか、友達としての節度が分かってないって言うか――」
「ふーん、シシィなんて呼んでるんだ? 昔何かの本で見た覚えあるけど、それって確か、向こうの愛称だよね。へー、もうそんなに仲良しなんだ」
声を潜めて言った俺に、冷水のように浴びせられる無慈悲な言葉。
俺は思わず言葉に詰まったが、何とか気を取り直して続けた。
「いや、だからそれも、彼女にしてみたら多分普通のことで――」
「『彼女』」
「揚げ足取らないでよっ……!? ただの三人称で、変な意味なんてないんだからっ……!」
「……ま、いいけど。じゃあ、乾先輩のことは?」
「それはっ――……その、俺にも……よく分かんないよ……」
それは嘘じゃない。杜愛先輩が何故俺のことを知っているのか、それすら分からないのだ。
「確かに先輩は、不思議なくらい俺に良くしてくれるけど、でも――」
ただ一つはっきりしているのは、
「……先輩と俺は、勘ぐられるような関係じゃないよ」
――俺と杜愛先輩は、単なる先輩と後輩。それだけは変わらない。
花登さんはしばらく無言だったけれど、
「……ごめんね」
涼しげな横顔が、少しだけ自戒するように俯いた。
「イジワルしちゃったよね。……ちょっと、悔しくて」
「えっ?」
どきりとして、思わず声が上擦った。
それがおかしかったのか、花登さんは少しだけ口の端に笑みを浮かべた。
「だって、シシィだなんて、とっても仲良しさんみたいでしょ」
「……そう?」
「うん……わたし、名字以外で呼ばれたことってないから。……ちょっと、憧れちゃって」
「……じゃあ、名前で、呼んでみる?」
「えっ?」
……誓って言うが、俺は女の子を名前で呼んだことなどほとんどない。それこそ、記憶も定かでない小さな頃くらいのものだ。
だから、何でそんなことを言ってしまったのか、自分でも分からない。驚いたような彼女の声に、俺の方が驚いてしまう。
……でも、一度言ってしまったことを今さら引っ込められないから。
「え、えっと、だから――……蓮華さん、とか」
「…………」
口を真一文字に結んで、黙ってしまう彼女。
やはりおかしかったかな、なんて一瞬、後悔した。
――けれど。
「……うん」
聞こえるか聞こえないかの、微かな声。
花登さんは――蓮華さんは。俯いて、気恥ずかしそうに頬を染めながらも、けれど確かに嬉しそうに、小さく頷いてくれた。
「不思議……想像してたより……ずっと、嬉しい。……ありがとう――……はじめ、くん」
そう言ってはにかむ蓮華さんが、あんまりにも可愛かったから――
「……うん」
なんて。
まるで彼女の真似をしているみたいで、ちょっとだけ気恥ずかしかったけれど。
俺も、火照った顔を俯かせて、小さく一つ頷いた。