[9]「ゲルマンアタック」
「――センセイ、私、巽クンの隣りの席にして下さいませんか?」
……それが、朝のHRに於けるハイリガー女史の第一声だった。
その後の教室内のざわめきは想像に難くないだろう。センセイも苦笑いである。
次なる爆弾発言は、諦めきれないクラスメートが何とか彼女の気を引こうと近付いた時だ。
「――ごめんなさい、私、巽クンの傍にいてあげなくちゃいけないの」
いや頼んでないですからっ! 満面の笑みでそう言うこと言わないで! 視線が、視線が痛い!
……けれど、そんな俺の気持ちなどお構いなしで、シシィはこの日の午前中、ずっと俺にべったりだったのである。
休み時間の度に俺の傍に来ては、
「数学はニガテ。世の中には計算じゃ割り切れないこともあるって思わなイ?」
だとか、
「生物は好き! イキモノのタヨウセイって面白いネ!」
だとか、
「国語むつかしいネ……もっとニホン語勉強しなくチャ」
だとか、
「英語よりドイツ語教えればいいのニ。アイン、ドイツ語勉強すル? 教えてあげるヨ?」
だとか――何でもない話を、ニコニコと笑いながら繰り返した。
周囲には、もっと色気のある話をしたがっている連中がわんさといるのに、そんな奴らと今日はもう眼すら合わせようとしない。
まるで、俺以外には何も興味がないみたいに。
初めは何とかシシィの気を引こうと頑張っていた連中も、昼休みになる頃には、もう半ば諦めたように何も言わなくなっていた。
……ただまあ、突き刺さる視線は相変わらずだったんだけど。
そんな状況では、東や南も俺に近付く気にはなれなかったのか、いつもの無価値で無意味で欲と妄想にまみれただけの戯れ言を、語って聞かせてくることもない。
日頃はうんざりするそれも、いざなくなると寂しいような気もするのだから、人間てやつは勝手だ。
そんなだったから、どうせ昼休みも解放しては貰えないんだろうな、なんてこっそりため息をついていたんだが。
――留学生の事情なんてものは知らないが、とかく色々とあるものなんだろう。
丁度昼休みになった頃、シシィは職員室へ呼び出された。
ほどなく教室へ戻って来た彼女に問うと、彼女は言った。
「ニッポンで住んでるところのヒトかラ、すぐに帰って来てっテ」
「住んでるところのヒト? ……下宿先の家主ってことかな」
「あ、うん、そウ」
説明が上手くなかったことに、彼女は少しはにかむように頬を染めた。
まあでも、言いたいことは分かったし。
「じゃあ、今日はもう帰るんだ?」
「うン……残念ネ」
しょんぼりと肩を落とす姿に少しばかり同情的になったけど、
「……ワタシがいない間に、ウワキしちゃダメだヨ?」
なんて言ってイタズラっぽく笑う彼女には、そんなもの無用の長物だったらしい。
それに――
「そうダ、デンワ番号教えテ? おウチと、ケータイデンワもネ?」
なんてさらりと要求してくる辺り、ちゃっかりしていると言うか何と言うか。
「……まあ、いいけど」
断る理由も特にない。……いや、ないこともなかったか。刺々しい殺気が背中に痛い。
ノートの切れ端にさらさらっと書いた番号を受け取ると、彼女はそれを胸にぎゅっと抱き込んで、心底嬉しそうに笑った。
「……Danke! アリガトっ! アトでデンワするネっ! ――やっぱりアイン、優しいネっ♪」
――チュッ……と。
瞬間、何が起きたのか分からなかった。
ただ、頬がほんのり暖かくて、甘い、いい匂いがした。
ああ、そうか、シシィの匂いか、これ。
……なんて、ぼんやりと考えてから、ハッとした。
そうだ、これは――
「しっ、シシィっ!?」
反射的に名を呼んで、大慌てで彼女を引き剥がす。
――それは、疑う余地もなく、正真正銘の、キス、だった。
「いっ、いきなりなにすんのっ!?」
「あ、ニッポンの男の子って、キスするとホントにビックリするんダ」
「それ確認するためにしたのっ!?」
「アハハー、顔まっカ♪ アインカワイイー♪ もう一回してイイ? いいよネ? するネ?」
「それキミの中では最初からいいことになってるよねっ!?」
「ンー」
「やめんかーっ!」
「ああン」
執拗に迫るゲルマンガールを無理矢理押し返すと、妙に艶めかしい声が漏れる。
勘弁して下さい、ただでさえ周囲の殺気が酷いことになっているのに! 憎しみでヒトが殺せるなら、もうそこら中俺の死体だらけですから!
「っ――馬鹿なことしてないで、呼び出されたんならとっとと帰りなさいっ……!」
言い聞かせるように言ってやると、不承不承と言った様子だが、諦めてくれたらしい。
「……そうネ。残念だけド――続きは、また今度ネ♪」
そんな捨て台詞を残して、シシィは眩いブロンドを軽く揺らしながら、颯爽と教室を後にした。
後に残された俺は……まあ、ちょっと怖くて教室の中が見られないですよね。――ああ痛いっ! みんなの悪意が痛いっ!
突き刺す視線から逃れるように机の上に突っ伏して――ふと、気が付いた。
期せずして、俺はシシィのゲルマンアタックから解放されたわけである。
時計を見れば、昼休みが終わるにはまだまだ時間がある。……購買に行くタイミングを見失って、手元には昼食たるものが何もないわけだが――この際、仕方ない。
「――お、やはり行くのでござるか?」
「そりゃあ行くでしょうな、最早日課ですからな」
席を立とうとした瞬間、そんな声。
見れば、東と南がニヤニヤしながらこちらを見ている。
……今の今まで距離とっておきながらこれだ。分かり易い連中である
正直、見透かされたようで気分は良くなかったが――しかし。
「……行くよ、多分待ってるから」
嘆息混じりに言い捨てると、
「ええ、ええ、止めはしませんとも。――しかし出来れば、そろそろ花登嬢のスリーサイズなど聞き出して頂けると、色々と捗るのですが」
「其れはそれがしとて、いと興味深き話でござるな」
なんて、好き勝手言ってくれる。
殴ってやりたい気もしないではなかったが――……まあ、俺自身興味がないと言えば、それはちょっと嘘になるので。
……ちょっと、ね?