[プロローグ]「おはようございます、旦那さま」
巽一はごく普通の高校一年生である。
取り立てて成績も良くなければ、運動が得意なわけでもない。
特別打ち込んでいるような趣味もなく、暇潰しには人並みにマンガやゲームを手に取る程度。
家庭事情的にはいわゆる父子家庭ではあるけれど、親との関係は良好。
そんなわけで、おおむね一般的な男子学生として、へーへーぼんぼんに暮らしているわけである。
……うん。そのはず、だったんだが。
「――おはようございます。……わたくしの、旦那さま」
そう言って、豪奢なベッドに横たわる俺を、半身を起こすような姿勢で見下ろす美女。
いや、本来は「美少女」と言うべきなのだが、彼女は年上であると言う以上に大人びて見える。
何世代か前の祖たる血を偲ばせる整った目鼻。
反面、大和撫子を思わせる艶やかな長い黒髪。
薄手のネグリジェを大胆に持ち上げるメリハリの利いたボディライン。
そして――俺を「旦那さま」と呼んだ、柔らかな声音。
「……あのさ、先輩」
「はい、何でしょう、旦那さま?」
にこっ、と嬉しそうに笑う。
……彼女は、俺をそう呼ぶことが嬉しくて堪らないようなのだ。
――だけど。
「その、『旦那さま』って言うの、なんとかならないですか」
「あら、どうしてですか?」
心底不思議そうに。
「だって、おかしいでしょ。俺はあなたの――乾杜愛先輩の、単なる後輩なわけですよ。それが妙に畏まってみたり、ましてや、ね」
「そんなの、だって、貴方は――わたくしの、伴侶になるお方ではありませんか」
「……いや、それ、俺、承諾してないですし」
言うと、彼女――杜愛先輩は、少しだけ悲しそうな顔をした。
「……旦那さまのいけず。こうして同衾までした仲ですのに」
――悲しそうだと思ったのはどうやら勘違いらしい。絶対に楽しんでいる、このヒトは。
「同衾て、ただ俺のベッドに先輩が潜り込んできただけでしょが」
「あら、わたくしとしては――昨夜、旦那さまの子種を頂いても宜しかったのですけれど」
息が止まるかと思った。なんでこのヒトは、そう言うことをさらっと言って退けるんだ。
……思わず反応しかける己の愚息が恨めしい。
「だっ、だからそう言うこと、当たり前みたいに言わないでくれとっ――」
言い様、身を起こそうとして――瞬間、それが叶わないことに気が付いた。
胸が重い。ずっしりと、何かが乗っている。
困惑しながらも、胸にかかる布団を勢いよく剥ぐと――そこには、杜愛先輩のシルエットに良く似た、「小さな何か」が張り付いている。
……こなきじじいか何かですか。
「……未愛ちゃん」
「ですわね」
嘆息混じりに呟いた俺を、肯定するように先輩が笑う。
そんな俺たちに反応したのか、胸の中の小さな少女がもぞもぞと動いた。
「うぅん……? ……あー……おにーたんだぁー」
寝ぼけ眼で、彼女――未愛ちゃんは言った。
もちろん……と言うべきか、それは俺のことだ。
「おはよう、未愛」
「……あ、おねーたん。……おはおー。……おにーたんも、おはおー」
言って、杜愛先輩とは違う、へにゃっとした笑顔を俺に向ける。
「……おはよ」
無視するのもばつが悪くて、俺は言葉を返す。
未愛ちゃんは「えへへー」なんて嬉しそうに笑ってから、もう一度俺の胸に顔を埋めた。
正直どうしたものかと思いはするが――恩人を邪険にするわけにもいかない。
何せ、俺の貞操が守られたのは、この子がいてくれたからなのだ。
年端のいかぬ妹の前では、さしもの腹ぺこオオカミさんも、震える子山羊を平らげてしまうわけにはいかなかったわけである。
ともあれ、このままでは身動きが取れないわけで――
「――幸せそうで結構だけれど、貴方たち、学校、休むつもりなのかしラ?」
そう。このままでは、当然、そうなり兼ねないわけである。
……って言うか。
「旦那さまの寝室にノックもなしに入るなんて、無礼な方ですわね――ハイリガーさん?」
先輩がどこか棘のある声を向ける。
俺は未愛ちゃんを抱えたまま何とか起き上がると、先輩の言葉の先を見た。
常識的に考えてベッドからの距離が遠過ぎる扉、その傍らに、少女が一人立っている。
俺も先輩も見慣れているセーラー服姿。高校の制服だった。
だけど、彼女はおよそ一般的な女子高校生の姿とは掛け離れている。
いや、先輩だってそれはそうなんだけど、そうじゃない。
彼女は――眩しい金の髪をしていた。顔立ちは先輩以上に端正で、肌は雪のように白くて、呆れたように俺たちを臨む瞳も、その髪と同じ金の輝きだった。
肩ほどの長さの金髪をして、流暢に日本語を操る、セーラー服の外人美少女。
……そう言えば、こんなのもいたんだっけ。
「あいにく、敵に愛想を振りまけるほど人間が出来ていないノ」
どこか挑戦的な笑みで、彼女は肩をすくめてみせる。
それを迎え撃つ先輩はあくまで笑顔だったが――薄ら寒いものを感じて、慌てて声を上げた。
「あっ、あーっと! お、おはよう、シシィ! えーと、おっ、俺たちを起こしに来てくれたんだよなっ!? あ、ありがとなーっ!」
はっはっはー、なんて自分でも意味の分からない笑いを上げながら、彼女の愛称を口にする。
彼女――シシィは、にこりと嬉しそうに笑って、
「どういたしましテ、アインもおはようネ。……いっしょに学校、行コ?」
冗談めかすように、そう言った。
――巽一はごく普通の高校一年生である。
取り立てて成績も良くなければ、運動が得意なわけでもない。
特別打ち込んでいるような趣味もなく、暇潰しには人並みにマンガやゲームを手に取る程度。
家庭事情的にはいわゆる父子家庭ではあるけれど、親との関係は良好。
そんなわけで、おおむね一般的な男子学生として、へーへーぼんぼんに暮らしているわけである。
――どうして、こうなった。