phrase.08「なんでアンタは私の下着を握りしめてんのよ?」
シャアアア、と水の落ちる音が、紫苑の耳元をくすぐる。
くしゃみを出しそうな顔をすると、ふわぁああと声に出して欠伸をする。
跳ねている髪のままゾンビのようにベッドを這って、カーテンを勢いよくバッと開く。朝日の直射日光が寝ぼけ眼に差し込み、うわっと咄嗟に腕でブラインド。段々と、部屋の中と外との明暗差に視覚野が慣れてくると、ようやく意識が覚醒してきた。
「ここ……は……?」
辺りを見渡せば、ホテルの一室だ。
金や銀の装飾がなされ、クリーム色の壁紙には独特の温かみがある。
大きめのベッドが、ほとんど間隔が開かずに二つ並行に配置されている。シーツがグシャグシャになっていたから、紫苑は目蓋をパチクリしながら広げる。
すると、アイロンの代替である手が何かを掴んだ。
「……なんだ? これ?」
なんの気なしに掛け布団から、掴んだものを取り出した。
紅。
薔薇のように真っ赤な下着が、紫苑の網膜を灼く。
かなり大きめな胸を覆うために取り付ける、ホック付きのそれはどう考えても女性のもの。女装癖がない限り、紫苑が身につけていたなんてことはありえない。
「うあああああああああああ」
バッ、と反射的に布団の中に戻す。何が最大の問題点かというと、隣のベッドからじゃなく、紫苑のベッドから女性下着がでてきたっていうこと。
少なくとも、紫苑のベッドで、女性が下着を脱ぐような行為をしたってことだ。もしくは、女性側のベッドに紫苑が寝ぼけて入り込んだのか。
(……後者のほうであることを祈る)
すると、足にまた何かが接触する。
まさかとは思いつつ、足先でなにかを確かめる。感触的に、それは布製品。上に着ける上着は既に発見済み。ということは、下に履くアレだという可能性は大だということだ。
何も触ったことのないことにして、紫苑は足でその布製品を奥へと押しのける。童子が布団に描いた地図を隠す時の心境に近い。
ガチャ、と目の前のドアノブが突如として回る。
「あれ? ごめん、シャワーの音で起こしちゃった? っていうか、さっきの悲鳴なに? 何かあったの?」
浴室からでてきたのは、バスタオル姿のヒートリンクスだった。
豊満な胸は、そんな布だけじゃ隠しきれていない。申し訳程度に腕を前にしてはいるが、逆に押し上げているように見えてしまい目に毒。
ヒートリンクスは、もう片方の手に持っているタオルで髪をかき揚げる。濡れそぼっている紅い髪は、朝日を浴びているためか、果てしなく綺麗で輝いてみえた。持ち上げている肘に、つつっーと水が滑る。そのまま、蓮の葉から零れ落ちる水玉のように、艶のある肌をなぞる。
「なんで……なんで……ヒートリンクスが?」
紫苑は後ろの壁に当たるまで下がる。
「なに寝ぼけてんのよ? 昨日からこの寮で共同生活することになったんでしょ? もしかして、そのことも聞いてなかったの?」
そういえば、そうだったと紫苑は想起する。
昨晩はどっと疲れてしまって、荷物の整理をやり終わらないうちに頭からベッドインしたんだった。フイファンが、絶対にヒートリンクスには手を出すなと、口を酸っぱくして注意してきたのだけは記憶に残っている。
「……っていうか、なんでアンタは私の下着を握りしめてんのよ?」
「えっ、うわっ!! ……わるい!!」
ボォ!! と、ヒートリンクスの拳が憤怒に発火するのもごもっとも。
何かの間違いだ、と紫苑は手を前にかざしていたのだが、その手にはいつの間にかヒートリンクスの下着を握りしめていた。しかも下に着用するやつで、生唾を飲み込んでしまうほどの深紅色。バッ、と投げ捨てるように、慌てて視界の外へと放る。
「ごめん! 全面的に俺が悪かった。信じてもらえないと思うけど……俺がヒートリンクスだったら、絶対に信じられないけど、そんなつもりは全然ない!」
「アンタねえ……。私の下着を持っていたのはまだいいわ。でもねえ……私の下着を、汚らしいものでも触ったみたいに、捨てるのは許せない」
「いや、俺は全然そんなこと思ってないって! むしろ、逆だって……!」
「…………逆…………って?」
今にも灼熱の拳を叩きこもうとしていた、裸体に近いヒートリンクスが石になる。
しなやかな肢体は、まるで艶美な猫のよう。ベッドに膝を沈ませて、格好は前かがみ。そのせいでバスタオルの間から、谷間が見えてしまう。片方の腕に体重を預けているから、むにゅと、マシュマロみたいに型体を崩す。
「……それって、どういう意味?」
「それ……は、」
神妙な顔つきをするヒートリンクスに、安易な返し方はできそうにない。
澄み切った紅い瞳は、紫苑の表情から真意を探っている。あまりにも接近しすぎて、女神の彫刻のような、ヒートリンクスの肢体の詳細が知覚できてしまう。
芸術じみた体から、どうしても視線を引き剥がすことはできない。無言でいた紫苑に業を煮やしたヒートリンクスは、ベッドをギシッ、ギシッと軋ませて近づく。脳がボフンと処理容量を超えて、紫苑は身動きがとれない。
そして、もう、ヒートリンクスの腕と、紫苑の膝の肌と肌が合わさるほどの近距離になる。中途半端に開いたままの紫苑の片足を、身体で包み込むように手を伸ばす。お互いが正面を向くような姿勢になったのだが、手を動かした拍子。
ハラリ、とバスタオルが落ちる。
あっ、と二人の一言は混乱の皮切り。一瞬、氷像になったかのように二人は硬直する。が、完全に肌を曝してしまった少女が、我に返ると、絶叫をホテル内に響かせた。