phrase.06「ボクの紫苑に手を出すなよ、小物が」
(なんなの、こいつ……)
ヒートリンクスの頭の中は、疑問で埋め尽くされていた。
もう、二度と誰かと戦いたくなんてなかった。
過去の惨劇を二度と起こさないために、力を使わない。そう決めていたはずなのに、冴えない顔をした男が戦場に迷いこんだ。轟々と炎が取り囲む、本物の戦場のようなこの場所に。
男は最初、まるで幼子のようにキョトンとして。
無垢な顔立ちのまま、状況の推移についてこれずに呆けていた。ヒートリンクスはひと目で、気に食わないと思った。
ヌクヌクと人の庇護下で育ってきた、純粋培養の植物のようだと思った。路傍で命を削っている名称不明で、人の足に踏まれ続ける雑草とは違う。
誰かから好意を受け取ることが当たり前だと思い込んでいる、ただの子ども。
そう侮っていたのに、男は背を向け無かった。そればかりか、ヒートリンクスの前に立った。まるでヒートリンクスを守る騎士かなにかのように。
「今すぐ私の目の前から消え失せろ。雑魚を調理して愉悦する趣味はないんでね」
「女を追い回していたくせに、趣味云々を語るなよ」
『アウスグス』を使役するのは、ストンホルム・フォン・ヘルヴィヒ。
まだ、手動操作の域を脱していないとはいえ、新入生としてはかなり高い次元の『操術師』に違いない。誤魔化しのきかない相手に、ヒートリンクスは自己の思いを率直に告げた。
ストンホルムと手を組むことはないと。
だが、冷徹なストンホルムは、ヒートリンクスを潰すことを決行した。それに、こうして第三者が介入しても顔色ひとつ変えていないほどの冷静さを持っていた。圧倒的格下相手だというのに、微塵も油断していない。
『アウスグス』を、攻撃にも防御にも瞬時に転じることができる絶妙な場所に配置していた。いつ攻撃を仕掛けてもいい。だが慎重なストンホルムは目の前の男の思考回路が理解できないためか、攻めあぐねていた。
「何故だ。お前には、華凛・ヒートリンクスを守れるだけの力は持っていないように見えるが?」
「ああ、俺は無力だ。無力だけど……お前みたいなクズよりはずっとマシだ。女相手に手加減せずに攻撃するようなクズ相手に逃げ出したりなんてしたら、恥ずかしくて明日からこの学園を歩けないな」
ピキッと、ストンホルムの青筋が立つ。
口を閉ざしてクールを装っていはいるが、相当腹に据えかねている。『アウスグス』が前かがみになり、臨戦態勢に入っている。いつでも不届者の頭蓋を噛み砕けるように、助走準備のような態勢。
「……それに、俺はフイファンと同等レベルの仇を倒さないといけないんだ。こんなところで、躓いていられないんだよ」
ヒートリンクス以上のバケモノ、リー・フイファン。
最近になって、彼女がようやく従者を扱うようになったと、噂には聞いていた。しかも、なんの力もないただの人間を従者にした。それが、目の前の男だということにを思い及ぶと、ヒートリンクスははっとする。
ヒートリンクス同様に、ストンホルムも気がつく。
「フイファン……? そうか、お前が『昏鐘鳴の悪魔』の『隷属』か。かの有名な悪魔も、随分と弱い『隷属』で妥協したらしいな。……見たところただの人間にしか見えないが?」
『隷属』は軽く見られることが多いが、それは大きな間違いだ。
契約する『隷属』によって、戦力が大幅に増減する。
例えば、ストンホルムの使役する『アウスグス』は、石でできた化け物、ガーゴイル。物理攻撃は、ほとんど石の身体で受けきってしまう。攻撃を与えられたとしても、近くに石を構成する物質さえあれば自己再生機能すらある。
だから、有り得ないのだ。
戦闘において、自分の盾に為りえないものと契約を交わすなんてことが。
ただの人間と契約するなんて前代未聞だし、前例なんてないはず。その弱さの証左は、紫苑が色なしだという事実で充分。
「ああ、そうだな。だけど、お前のただの石の塊よりかは強いんだよ」
ハッタリとしか思えないぐらい、紫苑はガタガタと全身が震えていた。血色も悪くて、無理をしているのは傍から見ればみえみえ。どこからどう見ても、無理をして立ち向かっている。
相手は格上。
それが分からないほどに、フイファンの『隷属』ならば、目は節穴じゃないはずだ。同格であるはずのヒートリンクスが惨憺たる状態にされたのを、直に目撃したはずだ。
(……そのはずなのに、どうしてあんたの心は折れないの?)
いつの間にか、ヒートリンクスはなんの力も持っていない奴に期待を膨らませかけていた。自分でも気がついてはいなかったが、少しだけ口角が上がっていた。
もしかしたら、この男が不可能なんてものは、笑って貪り尽くしてくれるのではないかと。
「……耳障りだ」
ストンホルムは、真正面から向けられた視線を振り払うように、『アウスグス』に手を振って指示を出す。猛然と襲いかかってくる『アウスグス』を相手取って、色なしが無事で済むはずがない。
ヒートリンクスは、床に火炎を走らせようとするが、
「…………あっ…………」
ガクンと、膝から力が抜ける。
(しまっ……た…………血を、流し過ぎた…………)
まるで地面に縫い付けられるかのように、足が動いてくれない。一瞬、脳に酸素が行き渡らなくなって、昏倒しかける。それでも頭を振って炎を操ろうとするが、それももう間に合わない。
無策で立ち向かった紫苑に、岩をも切り裂く一撃が与えられようとしている。
その力は身を以て知っている。
足が竦んでいるかのように、紫苑は避けようとしなかった。避けてしまえば、軌道上ヒートリンクスに攻撃が直撃してしまうかも知れないから。
そのことに気がついたヒートリンクスは、何かを叫ぶように口を開く。紫苑は防御態勢を取っているが、そんなものは焼け石に水程度の防御力にしかならない。絶望に満ちた絶叫が、ヒートリンクスの喉から吐き出された気がするが、それは声らしい声にならなかった。
そして、
「ボクの紫苑に手を出すなよ、小物が」
ドゴォオン!! と強烈な轟音を響かせた一撃。
ただの裏拳にしか見えなかったが、掲示板の取り付けられていた壁に、また新しい穴が空いていた。『アウスグス』には物理攻撃は効きずらいはずなのに、すべてを粉々にした荒業。それが、ただの拳だと思うと、アハハハと信じがたいものを見た反動で笑いすらでる。
『隷属』を失ったストンホルムは、そうはいかないようだ。
顔を真っ青にしながら、『アウスグス』の名前を連呼しながら、腕を何度も動かす。
だが、何も起きない。
瓦礫の向こうから何も起き上がってなどこない。
「なっ…………、『アウスグス』が、操術もなにも施されていないただの拳撃で……しかも……たったの一撃で機能を失ったのか? これが……『昏鐘鳴の悪魔』の力……?」
涼しい顔をしたフイファンは、ストンホルムに死刑宣告をする。
「これ以上、紫苑を相手取るというなら懸けてみなよ。……このボク相手に、命を捨てて立ち向かう覚悟をね」
「流石に……準備なしで『昏鐘鳴の悪魔』相手では分が悪い」
ストンホルムは、瞬時にイヤリングを揺らして逃げだす。
自分の実力不足を認めて、尻尾を巻いて逃げ出す行為はなかなか出来ることじゃない。高位の操術を持っているやつは、プライドも高いからなおさらだ。
だが、そんなストンホルム相手に、圧倒的な力を見せたフイファン。
ヒートリンクスは、怖々と悪魔を正視する。
あらゆる憶測が飛びかうほどに、悪魔の所業は聞き及んでいる。
が、さっきまでストンホルムに送っていた気迫とは全く違う、ほんわかとした雰囲気を放っていた。スタスタと、気が抜け、膝を地面につけている紫苑に向かって歩いていく。
「まったく、君というやつは。ボクの思惑と外れることを嬉々として行っている節があるね」
「今回は仕方なかったんだよ。……それに、今回もフイファンが助けてくれただろ」
「……む。ボクに頼ってばかりじゃだ、だめだよ」
分かりづらい。
非常にわかりづらいが、フイファンの頬は少しだけ赤く染まっているように見える。フイファンを警戒して凝視しなければ分からなかった。
「うわっ、ウソッス!」
悲観した声を漏らしたのは、さっきまで腰が抜けていた男。
見ているだけで、何故か心を掻き立てる。妙に苛立ってくる。
腰抜けは、散らばっていた紙を拾い上げると、
「アッシの同室の、ストンホルムってさっきのやつじゃないッスか。うぇっ! マジっすか。なんで、アッシがあんなバケモノと一緒の部屋に……」
頭を抱えながら、勝手に落ち込んでいた。
あんな嬉々として戦いたがる戦闘狂相手じゃ、その反応も当然か。
包帯を巻いている男と違って、紫苑とヒートリンクスは和やかになにやら談笑し始める。それを見てなんだかドッと戦闘の疲労がヒートリンクスの肩に伸し掛かってきて、はあと人知れずため息をついた。