phrase.05「……この俺が、全ての絶望を喰い尽くしてやる」
紅い、鮮血のように紅い髪。
豊満な胸にまで届く、長い髪をしている女は黒と赤を基調とした服装だった。
七分袖の黒いジャケットは、肩口が露出。中に着ている紅のシャツは、ヘソが見えるように前で縛っている。その結び方と肌の露出している服装が、胸のサイズをより強調している。
紅蓮のような超ミニのフレアスカートと、漆黒のようなニーソは絶対領域を作っていた。踵の厚いブーツをカッと鳴らすと、紫苑に視線を投げてくる。
赤い華のような立ち振る舞いをしている彼女は、扇情的な格好をしている。
だが、全くと言っていいほど、観ていて違和感はなかった。
娼婦とまではいかないが、そういう人間を見かけた時は、紫苑は眉を顰めてしまう。いつもならそのはずなのだが、まるで目に見えない引力があるかのように、彼女から目をそらすことができなかった。
「ふん。どうした? もう息が上がったのか、華凛・ヒートリンクス。先ほどからずっと逃げているだけで、一度も手を出していないな。その程度の力しかないとは、拍子抜けだ」
破砕された壁に手を掛けながらでてきたのは、二メートル近い長身の男。
瓦礫を邪魔くさそうに足蹴にする。
その男は褐色の肌をしていて、顔は強面。両耳にはジャラリと、鎖のついたイヤリングがぶら下がっている。丸太のような腕は、首の骨を折るのに手間取りそうにない。
ギョロリと紫苑を威嚇するように見るが、すぐにヒートリンクスへと顔を固定する。
「ジョーダン。あんたみたいなクズから逃げるのが、恥ずかしくなっただけよ」
獰猛な笑みをしている男は、獲物を前に舌舐りをしている狩人のようだった。加虐的な表情を浮かべているそいつの死角。
ヒートリンクスは指で紫苑に向けて合図をした。背中に回した手を必死で動かして、早くここから退避しろと言わんばかりのジェスチャー。
(まさか、俺たちを巻き込ませないため。そのために、ここから逃げず、あの男に立ち向かって……?)
どうすればいいのか思い悩む紫苑をチッと一瞥すると、ヒートリンクスはフッと息を吐く。
すると、ボォォと火の輪が、ヒートリンクスを囲むように地面を迸る。それは、さっさとどこかに行け、邪魔だと紫苑に訴えているようだった。
「……口の減らないやつだ。お前と私が手を組めば、『最上操術師』の一人や二人、打ち崩すことも不可能ではないというのに、どうしても私の誘いを断るというのか?」
「悪いけど、私はそんなのに興味はないわ。今あるのは、あんたをどうやったら気持ちよくぶちのめせるのかってことかしらね」
「随分と余裕じゃないか。……『精霊師』風情が」
男は懐をまさぐると、チェスの駒のようなものを取り出す。それを下手投げで床に投げると、やじろべえのようにバランスを保って、グラグラ揺れていた石の置物が停止する。
「瞠目しろ、『アウスグス』」
バキッバキッと小枝が折れるような音がすると、グググッと置物が徐々に巨大化する。そこら辺に転がっている瓦礫を集め、形を成しているように見える。
気がつけば、そこには嘴を大きく開ける石像がいた。
四つの足には鋭い鉤爪が備わっていて、床に爪痕を残す。バサッと石の翼を広げると、首元を絞めらているような大音声を響かせる。
「ならば、将来私の障害となる危険性のあるお前を、今この場で再起不能にするしかなさそうだ」
「やって、みれば」
ヒートリンクスの激情に呼応するかのように、炎の柱が火山の噴火のように燃え上がる。炎の渦の中心にいるヒートリンクスの服は特別性のためか燃えていない。あまりの業火に、揺らりと空気に歪みが発生する。
「あっつ!!」
熱量のある火の粉が、こちらまで飛んできた。
紫苑が退こうとするタイミングで、アシュレーが制服の裾を掴んできた。ヒートリンクスに蹴られたあと、ずっと静かだったが、あのまま死んだふりをしていたようだ。
「さあ、今のうちに逃げるッスよ」
「……逃げるって……」
「なに悠長に構えてるんスか!! あの二人のバッジを見てみるッス!!」
言われた通りに、紫苑は戦いだした二人に視線を向けてみる。
銅色のバッジが胸元で光っている。
アシュレーは、廊下の隅に隠れるように紫苑を引っ張り込むと、
「見たッスか? 見ての通り、『ブロンズクラス』同士の戦闘ッス。アッシらが、こんな戦いに巻き込まれでもしたら、消し炭になるだけッスよ。あのバケモノ達が諍いをしている間に、いますぐに逃げるッスよ」
「……でも、あいつは、ヒートリンクスは俺たちを助けようとして……」
「なに言ってるんスか? あんなの、あのバケモノが気まぐれを起こしただけに決まってるッスよ。旦那はあの女を知らないかも知らないと思うッスが、あいつは、冷酷非情、正真正銘のバケモノッスよ。たまたま今日は、アリ二匹を踏み潰す気分じゃなかっただけッス」
挽き肉を潰すような、不快な音がした。
鮮血をまき散らしながら、目の前にヒートリンクスが転がってくる。ボタボタと口の端からヨダレ混じりの血が、床を赤く染めていく。勝ち誇ったかのようにグリフォンに類似している『アウスグス』は、狂ったような雄叫びを上げる。
(なんだ……これ……現実か?)
逃げようとすると、ダンッと壁際に当たる。そのまま壁に密着して、みっともなく背を丸める紫苑。その足は、恐怖でガタガタ震えていた。極寒地にいるかのように、ガチガチと歯が噛み合わない。
これが、実戦。
半年の間に、血の滲むような模擬戦闘を繰り返した。
心臓が鷲掴みにされるような、体が宙に浮くような、その感覚を何度も味わった。だが、そんなものがただのお遊びだったかのように、体の芯まで痺れる。感電したかのように、身体が言うことをきいてくれない。
「あんた達、なにして――ウッ、アアアアア!!」
ガッと、肉食獣のような石の爪が、ヒートリンクスの柔らかい体に喰い込む。
ミシミシッと、背骨の軋む音が鼓膜を震わす。『アウスグス』は、容赦なくヒートリンクスの身体を粉々に破壊しようとしていた。
指示を出している男は、楽しくなさそうにフゥと嘆息をする。
「期待はずれだな。殺気が篭っていない攻撃ばかりじゃ、こっちとしては欠伸しかでないな。逃げるばかりの臆病者が、ようやく攻撃に転じたと思いきや、炎を操りきれないクズだったとはな。その程度の実力で、今更どうして、この俺に牙を向こうと思った?」
「……あんたみたいな馬鹿には……一生分からない理由よ」
炎を纏った拳を、『アウスグス』の脇腹に叩き込む。奇声を上げながら、ブロンズのバッチを付けている男の前まで、きりもみ回転する。ボロボロになった身体のまま立ち上がろうとするが、ガラガラと身体が崩れていく。
フッとヒートリンクスは勝ち誇った顔をする。
が、また周囲の石を取り込むと、『アウスグス』は驚異的なスピードで修復を終わらせた。絶望に満ちた顔は一瞬。すぐにヒートリンクスは紫苑達に向かって咆哮した。
「早く逃げなさい!!」
膝から崩れ落ちそうなぐらいボロボロでも、ヒートリンクスは他人のことしか頭になかった。紫苑たちを囮にすれば、楽に逃げられたかも知れないのに。
そんなことは一瞬も考えず。
巻き込んだのは自分だと言わんばかりに、またもや目の前の敵に立ち向かっていた。ヒートリンクスの膝は笑っていた。それは、身体の限界故の痙攣なのか、それとも恐怖故のものなのか。
ガッと、アシュレーが腕を掴んでくる。
そして、やっと出したと思われる、震えた声を絞り出す。
「ほら、何やってるんスか、旦那。ああ言ってくれてるんスから、お言葉に甘えて早くこの場から離れるッスよ。アッシ達みたいな凡人がここにいたところで、一体何ができるんスか?」
「でも、あいつが……」
「いい加減にするッスよ!! こんなのアッシらの手におえる事態じゃないッス。それに、これだけの騒動ッス。今この場を鎮圧できるような人間が、もうすぐ来るはずッスよ。……だから、何もできないアッシ達はさっさとこの場から逃げればいいんス!!」
そうだ。
ここにいたところで紫苑にできることなどなく、いたところでヒートリンクスの邪魔をするだけであって、足手まとい以外の何者でもない。
それに、紫苑は最初から逃げるつもりでいた。
それ以外の選択肢など、もとよりなかった。
フイファンの言うとおり、確かに紫苑はお人好しという性分があることは、多少自覚している。
だがそれは、自分の手の届く範囲内でしか発揮されない。
地元で地図を片手にキョロキョロしている人間には、自分が行き先を知っていれば教える。コンタクトを落とした人間がいたら、地面に視線を落として一緒に探す。
親切心があるといっても、その程度のもの。
自分の手に余ることになれば、一切合切シャットダウンして目を背ける。黒獅子紫苑は、そのぐらいちっぽけな人間だった。
「……それとも、まさかフイファン先輩と一緒にいて、自分が強いとでも勘違いしてるんスか? 旦那はただの従者で、色なしなんス。ここで馬鹿みたいに特攻していったところで、あいつに嬲り殺しにされるだけなんスよ!!」
それに、二人の戦いに巻き込まれただけ。
元々紫苑には関係ないことだ。
自分の身にかかる火の粉は、振り払ってしまえばいい。傷つけられている女の子が目の前にいても、無視して立ち去ればいい。例えそれが、紫苑を助けるために戦っていたとしても、そんなものは自分勝手にやったことであって、こちらが頼んだ覚えなんてない。
どれだけこの場で苦い想いをここでしても、後悔したとしても。
そんなものは、時間が解決してくれる。
一晩寝て、起きてしまえば、女の子を見捨てた記憶なんて薄れる。嫌な記憶なんて、時が経ってしまえばいつかは消え去るものだ。ヒートリンクスがどうにかなったと人づてに聞かされたとしても、ああそうなんだって、頭の片隅に追いやるだけ。
だって、これは一瞬の邂逅。
刹那の期間で、生まれた感情なんて薄っぺらいものだ。仮に正義の心が胸に灯ったとしても、なけなしの勇気を絞り出したとしても、そんなものは勘違いだとか気の迷いといった類の代物。
だから、こうやってぐだぐだと言い訳を重ねて、自分の心を守ることなんて、傷つかないようにすることなんて、とっても簡単な事だ。
「ああ、そうだな……」
無能。
紫苑は死んで、『隷属』として蘇っても尚、その十字架を背負っていた。ただの人間だった生前と何一つ変わっていなかった。変わることなんてできなかった。
敵を焼き払ってしまうような、そんな特殊能力なんて持っていない。
追い込まれれば『覚醒』……なんて、ご都合主義の展開は、この現実には一切存在しない。
素手で『操術師』を打ち倒すだけの格闘センスを秘めているわけでもない。
こんな時には何もできない。ただの、役立たずだ。
「こいつに勝てる道理はどこにもない。会ったばかりの奴のために、命を張る理屈なんてどこにも見当たらない。俺が立ち向かったところで、結末は絶望しかありえない。だけど、そんなちっぽけなことが、ここでこいつを見捨てる理由にはならないんだ」
紫苑は一歩を踏み出す。
バケモノの姿をしている『アウスグス』の前へと、ヒートリンクスとの間に割り込むように。迷いなんてなく、真っ直ぐに敵を見据えていた。
空気を焦がすほどの炎が上がるこの場は、まるで絶望そのもの。舞い上がっている火の粉が、ぼんやりと命知らずを照らす。
「……この俺が、全ての絶望を喰い尽くしてやる」
実戦の戦闘経験なんて皆無の色なしが、たった一人で新入生最強クラスの男の前へと立ち塞がった。