phrase.03「ボクの目の前に現れたんだからね」
リー・フイファン。
色素の薄い髪は、肩に届く程度。
肢体や体格は女性そのもので、曲線を帯びている。
二人連れ立って廊下を歩いていると、小柄な体格なせいで紫苑の目線はやや下がってしまう。
身に纏っている服は、『氣攻道師』の正服。上着が足先まで丈のある独特な男性用の服は、他の生徒達の中でも目立っている。
もっとも、衆目に晒されている理由は他にもあるようだった。
「えらく注目されてるみたいだけど、そんなに有名なのか? フイファンは」
歩きながら、紫苑は疑問に思ったことを尋ねる。
「この騒ぎは、君が考えているような華やかなものじゃないよ。ボクが学園に登校するなんて、ほとんどないから、みんな物珍しさで騒いでいるだけだよ。きっとね」
「へえ。フイファンって、不登校だったのか?」
フイファンは頭痛がしたかのように、頭に手を当てる。
「勿論、違うよ。操術課程はとっくの昔に全て免除されているから、本当はもうこの学園に登校する必要なんてないんだ」
「じゃあ、なんのために?」
「そんなこと決まってるじゃないか。君が心配だったからだよ。『隷属』である君に、面倒ごとに首を突っ込まれると、君の『操術師』であるボクまで責任問題を問われかねないからね」
契約を交わす際に、『操術師』と『隷属』との上位関係は魂にまで刻まれる。『操術師』は『隷属』が万が一にも反逆できないように、多種多様な術を行使する。
紫苑の場合は呪符。
不可視の呪符が紫苑の額にペタリと貼られていて、フイファンには『隷属』の身体を自在に操る権限が与えられている。フイファンが念じれば、脳そのものに激痛が走る仕様になっている。
常に、頭に銃口を向けられている関係だといってもいい。
だけど、フイファン自身が、紫苑に何か命令を強制したことはない。どんな理不尽な命令であっても、決して逆らうことができないはずなのに。
「俺は、この学園にいる自分の仇を倒したいだけなんだ。理由もわからずに、いきなり殺されて、はいそうですかって、納得できるほど、俺はお人好しじゃないんだよ」
「……言っておくけど、今の君じゃ無理だよ。君の敵は、恐らくボクと同格かそれ以上。君を殺した相手が、この学園にいるということだけは目星がついているけれど……今の君には、まずこの学園で日常を送れるだけの力を持つことが先決だよ。それは君の身につけているバッジが、言外に告げている」
これだけフイファンが自分の実力を豪語するのには、ちゃんとした理由と理屈がある。
学園に入学する前に、生徒全員にはある程度の能力査定が行われるからだ。
キッチリと能力差をつけることによって、生徒の向上心を煽ることが目的らしい。
伝説上の生物が彫られているバッチを、この学園の生徒は必ず左の胸元に付けることが義務付けられている。
能力順に、ゴールド、シルバー、ブロンズ、ブラック、ホワイトの配色になっていて、かなりの格差があるらしい。
色なし(=ホワイト)の烙印を押された紫苑には、最高クラスにランク付けされているフイファンの言うことが、どうしても正論に聞こえてしまう。
だけど、今回ばかりは言い方が大げさだ。
「そんなにヤバイことなんて、この学園にあるのか?」
「君には、教訓としてその体に刻まれているはずだよ。平穏なんて、張りぼて同然だということをね」
「…………っ」
「そんな顔をしなくても大丈夫だよ。この半年間、ボクが鍛えて、君は最低限の実力を身につけたんだ。余計なことに首を突っ込みさえしなければ、だけどね」
「あははは」
紫苑が苦い表情で笑ったのにも訳がある。
なぜなら、半年前の事件よりも、フイファンとの特訓の方がよっぽど死ぬかと思ったからだ。少なくとも死にそうになった回数は断然多い。
不意に、紫苑はなにかの視線を感じた。
開け放していたドアに視線を向けると、ヒラヒラと蟲が廊下に入ってくる。
光の反射によって、紫と群青色に羽の色が変わる不気味な蟲。蝶のような型体でありながら、赤い三つ目の眼光と、細い手足が蠢いている。
『随分と楽しそうにお人形と戯れていらっしゃいますのね、フイファンさん』
中空で停止している蟲から声が発せられているということを現実として認めるのに、紫苑は数秒を要した。くぐもった声だが、口調や声質から操っているのは恐らく女性だ。
蟲は微かに上昇と下降を繰り返しながら、八枚羽を擦り合わせた不快な音を響かせる。
『新しいおもちゃを手に入れて、ご満悦といったところでしょうが、この学園に帰ってこられたのなら、まずはワタクシに挨拶をしに来るのが礼儀ではなくて?』
「……へえ。君がそこまでボクに興味を持ってくれたなんて知らなかったよ。一体どういう風の吹き回しなのかな?」
『ただの醜い嫉妬ですわ。あなたがワタクシ以外の人間と遊ぶ姿なんて、見たくありませんもの』
「しばらく見ない間に、君もそんな冗談を言えるようになったんだね。驚嘆するよ」
フイファンは疲れたような顔をすると、ほんとに驚嘆したよ……と俯いてから、小さく呟くと、
「――そんなくだらない冗談を言うためだけに、ボクの目の前に現れたんだからね」
空気を切り裂く音がした。
気がついた時には、蟲は四散していた。
手刀で蟲を高速で薙ぎ払った後の、フイファンの残像のような手だけは紫苑にも目視できた。どんな軌道だったのかは、目に写らないほどの速度。
フイファンの顔は能面。
沸点を遥かに超えたような顔をしている。
『そこまで、その人形との遊戯したいのですか? ふふっ。あなたがそこまで執心するなんて、どこまで遊び甲斐のある木偶なのか。ワタクシ、本気で興味を持ってきましたわね』
もう終わりだと思っていたようなフイファンは、眉根を片方上げる。
紫苑は周囲を見渡すが、どこから反響しているのか探し出しきれなかった。
『強情な貴方もそそられますが、これ以上ワタクシの誘いを断るというなら……このワタクシ自らが、貴方のお人形で遊んでもよろしくてよ』
ギリッ、とフイファンから奥歯を噛み切るような音がする。
そして、申し訳なさそうな表情をすると、紫苑に謝罪する。
「ごめん、君に付き添えるのはここまでみたいだ」
「俺は……一人でも大丈夫だけどな。そっちはどうなんだ?」
何が起こっているのか分からず、しばらく蚊帳の外だった紫苑。
それでも、これからひと悶着があることぐらいは、容易に想像できる。話し合いなんかじゃ解決できないような、ちょっとした戦争が展開されることぐらい。
「問題ないよ。これで痛い目にあえば、彼女も少しはこりてくれるだろうからね。それじゃあ、また入学式が終わったら、ここで落ち合おう」
それじゃあ、また後でと言い終えると、猛スピードでどこかに走っていく。迷いないその走り姿から、どこに術者がいるのかは見当がついているようだった。
そんなフイファンを見て、紫苑はちょっとした置いてけぼり感を喰らっていた。
この学園でのフイファンは、紫苑の知っているフイファンではなかった。
それは当たり前のことで、ただの我が儘なのだろうけど、何だか随分と寂しい気持ちになった。