phrase.30「――生きることを、あきらめるなよ」
「……本当は、どうすればいいかなんてぐらい分かっていた」
『操術師』の手から離れ、完全に自由と化した炎は存分に燃え盛っていた。
あらゆるものを飲込みながら、増大している。見下ろせるように設計されている観客席にも、もう少しで火の手が回りそうなぐらい紅蓮の炎は闘技場を侵食している。
観客席から絶望に満ちた阿鼻叫喚が聴こえてきたもいいのだが、紫苑の鼓膜には届くことがなかった。視認したいところだが、今は絶望の炎を撒き散らすヒートリンクスから目を離すことはできない。
「私が、早く死ねばそれで良かったのよ。死ぬことを躊躇ってしまったから、紫苑の心も体も傷つけてしまった。もう……どれだけ謝っても赦してくれないでしょうけど、それでいいわよ。私をずっと恨んでくれていい。……だけど、最期に謝らせて。……ごめん。ごめんね」
ヒートリンクスは、まるで迷い子のように涙を流していた。
どうすればいいのか分からず、救いを求めているようにも見えた。
「私には、死ぬ勇気がなかった。生きていれば……必ずみんなを傷つけてしまうことは分かっていたのに。……それなのに、こうやってのうのうと今まで生きてきた」
ヒートリンクスは覚悟を決めたように、ふっと笑った。
「だけど、ようやく決心がついた」
純粋無垢な瞳をした『操術師』が、炎を纏った手を振り上げる。
炎は増大していき、一つの形に凝縮される。ボゥ!! と空気を切り裂くような音を響かせると、炎の刀を形成する。切っ先を自らの体に突き立てるように、刃を向ける。
「どうせ、このままじゃ私は力を使い果たして自滅する。ようやく死ぬことができる。……だけど、もう一秒たりともこんなバケモノには、躊躇う猶予なんてないわよね」
メラメラと空気を揺らす、灼熱の炎刀は高圧縮されていて密度が高い。
一つの芸術品のようにその形を為していて、人の体なんて簡単に突き刺し貫通するほどの威力を持っていそうだった。
ましてや、向けられている箇所は心臓。
待っているのは、確実な死。
それでも、最期に見せたヒートリンクスの表情は、滂沱の涙を流しながらも、笑顔だった。まるで、これでようやく自らの不幸にまみれた物語が綴られた本を閉じることができて、幸福だとでも言いたいように。
「ありがとう。最期の最期に……私はアンタに逢えて……私は、本当に幸せだったよ」
ブシュッ、と鮮血が舞う。
刀は肉体どころか、骨すら貫通して深く突き刺さる。
肉体の焦げる匂いを漂わせる。
確実に死ぬはずだった。
それが、ヒートリンクスの肉体だったのなら。
「…………なんで?」
死ぬ覚悟をしていたヒートリンクスが目を見開く。
炎刀が突き刺さったまま紫苑は、身動きができていなかった。ジュッ、と肉体が灼ける音が鳴ると、激痛の声を上げる。
死んだ肉体が再生していかない。
連続で肉体修復を行ったせいで、最早自己再生も限界だった。それに、どれだけ不死身の体と言っても、その痛みは生身の人間と相違ない。痛みを感じる神経は一緒で、肉体再生する際にも、傷つけられたと同等の激痛が肉体を蝕む。
それでも、折れなかった。
紫苑の最大の武器は肉体の『不死』ではない。
どれだけ折れそうになっても絶対に諦めない、『不屈』の心だった。
万能ではない力を持つ不死者は、ヒートリンクスの手を力強く握って、強がるように言った。
「死なせないって、言っただろ」
なんで、なんで、とヒートリンクスは譫言のように呟くと、
「……私は、生きる資格なんてないの。生きているだけで……自分の意志とは無関係に誰かを殺してしまう。不幸にしてしまう。……だけど、そんな私にも、ようやく誰かを幸福にできることができることを思いついたの。私が……今ここで死ねば、ここにいるみんなの命全てを助けることができるの。……せめて最後くらい誰かを幸せにして死にたいの」
「止めるよ。絶対に俺は、死のうとするお前を止めてみせる。死なせてなんかやらない。この手を離してなんかやらない」
「なんでよ!? 私はたくさんの人の命を犠牲にしてここに立っているの!! 生きているだけで、たくさんの人たちの命を奪うの!! ……だったら死んだほうがいいじゃない!? たった一人の人間がっ……私が死ぬことによって、たくさんの人間が幸せになるのなら、それでいいじゃない!? バケモノが死んで、それで他のみんながハッピーエンドを迎えることができれば、それでっ……!!」
「……もう、それ以上自分を傷つけないでくれ」
懇願するように言う紫苑は、泣きそうだった。
何度も何度も自らに刃を突き立てるヒートリンクスを見ていると、こっちが涙を流しそうになる。傷だらけの彼女を見ていると、こっちが苦しくなってくる。
「お前、本当は死にたくないんだろ!? だったら、死ぬなよ!! お前が今までどれだけの地獄を歩いてきたのかなんて俺は知らない。……でも、だからなんだって言うんだ!? お前がその力のせいで誰かを地獄に落としてきたのなら、今度はその力を使って地獄に落ちた人間を救っていけばいい!!」
紫苑の力は不死身というだけだった。
そのおかげで戦闘スキルが格段に跳ね上がるだとか、そんなご都合主義は待っていない。
この肉体になってからも何度も敗北してきた。
『アウスグス』との戦いでは、ただ立ち尽くして、ヒートリンクスの盾になることしかできなかった。
『乖離幻想体』との戦いでは、ただの足でまといでしかなかった。
そんな役立たずの紫苑では、どうすることもできないことばかりだ。
だけど、ヒートリンクスはそうではない。
ヒートリンクスの力があれば、もっとたくさんの人間を救うことができるはずだ。そんな可能性を秘めている彼女が、こんなところで死んでいいはずがない。
きっと紫苑なんかと違って、もっともっと他にできることはたくさんあるはずなんだ。
それに、これだけ他人の為を思って涙を流せる彼女が、生きてはいけないなんて、そんな運命は間違っている。
「死んだ人間は、もう救うことなんてできない。過去のしがらみのせいで今のお前が身動きできないなら、今お前できることをやればいいだろ!?」
「だからっ……だから死のうとしただけじゃない!! 死んだ方がいい人間は、確かにここにいるのよ!!」
それは、間違っている。
紫苑は唇を閉じながら、首を横に振る。
「……俺は、死んでようやく分かったことがある。人は生きてるってだけで、幸せになれる可能性があるってことを、誰かを幸せにできるってことを。……死んでからようやくだ。だからお前に、俺は何度でも言い続ける」
紫苑は自分の同類を作りたくはなかった。
後悔したまま死んでいって欲しくない。こうして一度死んで、蘇ってようやく見つけたこと。紫苑は死ななければ見つけることができなかった馬鹿だけど、だからこそ実感を込めて言葉を吐くことができた。
「――生きることを、あきらめるなよ」
ヒートリンクスの呼吸が止まる。
悲痛の表情に、影を落とす。
「……でも、私はもう無理なのよ。……もう、死ぬしかないのよ」
もうどうすればいいか分からないといった様子のヒートリンクスに、紫苑は近づく。
肩と肩がぶつかるぐらい。
紅い瞳に、紫苑の顔が映り込むくらい。
傷ついた表情の女の子の傍らに。
「お前は死なせない。死なせてなんてやらない。お前が生きる理由が見つからなければ、これから作ればいい。もう死にたいなんて思えないぐらいの未練を、思い出を……今から作っていけばいい。――……これから、俺と一緒に」
「――は?」
ヒートリンクスがその場にそぐわない頓狂な声を上げる。
だが、その続きの言葉を聴くことはなかった。
互いの睫毛と睫毛が重なるぐらいに接近する。そのまま真正面だと居心地が悪く、紫苑は少し顔をずらすと、今度は睫毛が肌にあたって、くすぐったい。
やがて状況を次第に理解したヒートリンクスは、顔を熟した果実のように赤くして抵抗する。重なるようにしていた足が縺れて倒れそうになるが、紫苑は慌てて滑らかな曲線を描く腰に手を当てる。そして、押さえ込むようにして力をグッと込める。もう一方の手はギュッと握り締めたままだった。
やがて、胡乱な目つきになっていく。
ヒートリンクスは、ふにゃりと力を失うと紫苑にもたれ掛かる。それに連動して、地獄の釜を沸かすような炎は鎮火していく。
紫苑はフイファンの力によって、蘇ることができた。
生命エネルギーを『氣』の力によって肉体を循環させることによって可能となったのだが、それができるのなら、その逆もまた可能だということだ。
膨大すぎる力を吸収し、それを血肉にする。
欠陥だらけの不死だからこそ、その肉体を維持するためには多大な犠牲が必要不可欠となる。それは本来ならば、動く屍が最弱の不死と言わしめるファクターのはずだった。力を貪るだけの、忌避すべき力のはずだった。
だが、今は一人の命を救うために力を使うことができた。
紫苑が、ヒートリンクスにキスをすることによって。
やがて、諤々と膝を揺らしたヒートリンクスは意識を失う。紫苑も力を使い果たし、倒れたヒートリンクスに折り重なるようにして――やがては気絶した。




