phrase.01「君はまだ、生きたいのかな?」
既に虫の息だった。
間隙なき豪雨は、容赦なく半死半生の少年を圧潰す。
少年は朦朧とした意識のまま、壁に手を当て進む。
水分を吸い取った服が重しのようにのし掛かり、壁なしでは普通の二足歩行すらできない。死神の鎌が喉元にあり、摩耗した命を刈り取ろうとするような感覚すらあった。
雨のせいも相まって、視界は霧がかってくる。
ガッ、と壁に手を当て損ねると、爪に小さな罅が入って出血する。ふらついて膝立ちになると、バシャア、と大きな水溜りが跳ねる。
少年は受身も取れず、体ごと前のめりに倒れる。
そのまま倒れ附していると、風穴の空いた腹から血液がドグドクと流れる。
どんな果実よりも赤い血は、雨と同化して側溝へと流れていく。汚物を人の目に触れさえない下水道へと、淀みなく。
「あっ…………がっ…………」
不規則に漏れる少年の息遣いと、掠れた声。
生きてはいるが、それも時間の問題。傷口を手で押さえる余力すら残っていない。できたとしても、もうそんなものは応急処置にすらならない。
それでも、少年は霞がかった思考のまま、指をピクリと動かした。ゆっくりと、時間が止まっているかのようなノロノロとした速度で、手を中空へと突き出す。
「…………ぐっ…………あっ…………」
奇跡に縋ることしかできなかった。満足に手足を動くこともできない中、救いの手がこの手を握ってくれるのだと妄信するしかなかった。
だが、そんな空虚な願いも――もう限界。
眼蓋が、土砂降りに圧殺されるように閉じていく。青白くなった腕は、だんだんと重力に負けて下がっていく。
平凡過ぎる人生を送ってきた少年は、ご立派な走馬灯を拝む権利すらなかった。
ただ、虚ろに積み重ねてきた人生を悔いながら、誰にも看取られることがないまま、脆弱な鼓動が停止する運命しかない。
大切な誰かを想起するほど、上等な人生経験や人間関係は待ち合わせていない。伽藍堂なまま、こんな人生しか送れなかった一生を少年は呪う。
死を享受できないまま、少年の手がとうとう地面につい――――
「君はまだ、生きたいのかな?」
温かな感触が、少年の手をすっぽりと包み込んだ。
少年は、驚きに満ちた顔をしながら、薄れていく意識を必死で保つ。手を握り締めたその人間は、どこか浮世離れをした雰囲気を漂わせていた。
奇異の目で、少年はその人間を黙視した。
レインコートに身を包んでいる風変わりな人間だった。
最も気になったのは、その人間が何故か全く濡れていないということだった。まるで、体全体に何か薄い膜が張っているかのように、大雨を寄せ付けていない。
「残念だけど、君の命は風前の灯だよ。恐らく……あと数刻の時を待たずして、君という存在はこの世から消え去るだろうね」
清々しいまでに他人事な口調。
鈍色の瞳からはなんの感情も浮き出ていない。機械のようなその人間は、感情どころか、性別すらも把握できない。
精緻な造形をしているが、その顔貌は両性的。綺麗な男とも取れるし、柳眉の整った女とも取れる。
「……あ……ああ…………ああ……」
もう、意味のある言葉は、喉から搾りだせない。
涙にも似た雨が頬を伝いながら、少年はただ口をパクパクさせていた。見ようによっては、まるで金魚が餌を請うような姿。
だが、その滑稽な姿を見て、レインコートの人間は嘲笑しなかった。
「そうか……。でも、生憎とボクには君の命を救えるほどの力は持っていないんだ」
少年は失望したような顔をする。
微苦笑をするレインコートの人間は、膝に少年の肩を乗せる。少年を持ち上げる力などなさそうに見えるが、ヒョイと簡単に移動させた。
「――だけど、ボクは、君を生き返らせる力は持っている」
ぼんやりと、鈍い光がレインコートの人間から放射される。
空を覆う雨雲が、広範囲に影を落としている。
それと比較すれば、ほんのちっぽけな光だった。
だが少年には、まるで絶望を侵食するかのような、希望の光にすら見えた。
「ただし、それは君を『死』より、もっと苦しい地獄に突き落とすことになるのかも知れない。これは神の奇跡なんかじゃない。むしろ真逆の……『呪い』のようなものだ。仮りそめの命を得た君は、いずれ必ず後悔することになる。そして、今までの君の人生とはかけ離れた、血塗られた道を歩むことになる。――それでも君は、みっともなく足掻く道を選ぶのかな?」
コクンと、肯けたのかどうかは分からなかった。
ガクガクと顎が震えながら、濁った眼球を蠢かすことしかできない少年に対して、レインコートの人間は怯むことなどなかった。
むしろ、目元を少しだけ緩ませた。
「……愚問、だったかな」
レインコートの人間は顔を寄せる。
その時にようやく隠れていた灰色の髪が、少年の目に映る。黒にも白にも混ざることができない、中途半端なその色。見ていると、何故か心がほぐれた。
「しばらくは、おやすみ。そして――覚醒した時には、もう君はボクの従僕だよ」
不穏な含みを持たせた言葉も、もう少年の脳には届かなかった。ただ接近してくるレインコートの人間の唇に目を奪われ、そして、次の瞬間にはそのプルプルとした唇を重ねられていた。
「…………っ…………」
小鳥が啄むように唇を吸われながら、少年の意識は減衰していく。
15歳の誕生日を迎えたこの日。
少年はファーストキスを強奪されながら、静かに絶命した。
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