『立てば芍薬、座ればロキソニン』
本作は、全三話の短編コメディです。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。
――そんな美しい言葉とは、だいたい無関係な話です。
年齢、体力、気合、根性。
どれもそれなりにあるはずなのに、なぜか先に限界を迎えるのは身体。
それでも今日をやり過ごすために、
人は立ち、座り、歩きます。
少しだけ笑ってもらえたら幸いです。
第1話:問題ありません(腰以外)
立てば芍薬、座れば牡丹。
歩く姿は百合の花。
そう言われたのは、一度や二度ではない。
正確には、そう言われている場面に何度も居合わせた、という方が正しい。本人を前にして言う人もいるが、大抵は少し離れたところで、ひそひそと、しかしなぜかよく通る声で囁かれる。
「ほら、あの人。姿勢がきれいで」
「本当に。立ち姿が違うわよね」
「品があるっていうか」
ありがとうございます、と心の中でだけ返事をする。声には出さない。出したところで会話が広がるだけだし、広がった会話はだいたい面倒な方向へ進む。
私は今、立っている。
背筋を伸ばし、肩の力を抜き、重心を均等に保って。
そして、腰が痛い。
具体的には、第三腰椎から第五腰椎あたりが、鈍く、しかし確実に存在を主張している。今すぐ倒れ込むほどではないが、油断すれば一気に悪化するタイプの痛みだ。私はこの手の痛みと長い付き合いがあるので、危険水域の見極めには自信がある。
現在の痛みレベルは、七段階中の四。
まだ笑顔を維持できる。
五を超えると、笑顔が引きつる。
六で、座りたくなる。
七は、無理。
「大丈夫ですか?」
声をかけられ、反射的に頷く。
「ええ、大丈夫です」
問題ありません。
腰以外は。
立っている間はいい。問題は、座るときだ。座る瞬間に、必ず一瞬、全神経が腰に集中する。勢いでいくと失敗する。ゆっくり、角度を計算し、太ももと腹筋を総動員して、腰に直接負荷がかからないように落とす。
私は優雅に椅子に腰掛けた――ように見えたらしい。
「本当に所作がきれいねえ」
そうですね、と頷きながら、私は内心でロキソニンの残量を確認していた。朝に一錠。昼は我慢した。次は夕方。まだ効いている時間帯だ。
座れば牡丹。
座った瞬間、腰が悲鳴を上げていることなど、誰も知らない。
私は昔から、こうだった。
褒められる外側と、管理し続ける内側。
他人が見るのは、姿勢と雰囲気と、落ち着いた受け答え。
私が見ているのは、痛みの度合いと、無理の限界と、次に休めるタイミング。
どちらが本当かと言われれば、どちらも本当だ。
ただ、外に出しているかどうかの違いだけ。
「若いのに、しっかりしてるのね」
若い、という言葉は便利だ。
説明を省略できる。
理解を期待しなくて済む。
私は微笑んだ。
「いえ、そんなことは」
立てば芍薬。
座ればロキソニン。
今日も私は、問題ありません。
ーーーー
第2話:歩く姿は百合の花(なお神経痛)
歩く姿は百合の花。
それはもう、言われ慣れている。
正確に言えば、「歩いているのを遠目に見た場合に限り」という注釈が、心の中で自動的に付与される表現だ。近くで見てはいけない。話しかけてもいけない。何なら、追いかけてもいけない。
なぜなら私は今、神経痛を抱えながら歩いている。
右脚。
正確には、右の臀部から太もも裏、膝裏を経由して、ふくらはぎの外側まで。電気が走る、という表現は少し大げさだが、鈍い痛みが一定のリズムで脈打っている。
歩けないわけではない。
ただし、歩き方に制限がある。
歩幅は一定。
急に止まらない。
方向転換は大きく。
階段は――できれば避けたい。
それでも私は、いつも通りに歩く。
姿勢を崩さず、重心を意識し、足音を揃えて。
遠目から見れば、たぶん問題ない。
少なくとも「神経痛持ちです」とは思われない。
「きれいな歩き方ねえ」
すれ違いざまに、そう言われる。
ありがとうございます、と心の中で返す。
声には出さない。出すと、歩行リズムが乱れる。
私は今、百合の花である。
ただし内部配線が不調。
神経痛というのは厄介だ。
痛みの場所が移動する。
さっきまで太ももだったのが、次の瞬間には膝裏、油断すると足首まで降りてくる。しかも、気分屋だ。調子のいい日は何事もなかったかのように大人しくしているくせに、重要な予定がある日に限って自己主張を始める。
今日は、その「自己主張する日」だった。
私は目的地まで、あと三百メートルほどの地点にいる。
距離としては大したことがない。
問題は、その三百メートルの途中に横断歩道が二つあることだ。
信号待ち。
立ち止まる。
これが、よくない。
歩いている間は、勢いで誤魔化せる。
止まった瞬間、神経が「今です」と言わんばかりに存在感を増す。
私は微動だにしない。
動くと、痛みの位置が確定してしまうからだ。
赤信号。
まだ。
横でスマートフォンを見ている人、買い物袋を提げた人、早足で到着した人。誰も、私の右脚に意識を向けていない。ありがたい。
青信号。
私は歩き出す。
一歩目が、重要。
ここで失敗すると、後は全部だめになる。
重心、角度、接地。頭の中で確認しながら、静かに踏み出す。
――大丈夫。
百合の花、再起動。
通り過ぎる人の視線を、私は感じている。
感じてはいるが、受け取らない。
他人の評価は、歩行の邪魔になる。
「姿勢、いいですね」
目的地に着いた頃、受付の人に言われた。
「ありがとうございます」
声に出した。
ここは、立ち止まってもいい場所だ。
椅子に座る。
慎重に。
神経痛は、相変わらずそこにいるが、さっきよりは大人しい。立っているより、まだましだ。
「疲れてませんか?」
「いえ、大丈夫です」
本当だ。
疲れてはいない。
ただ、常に管理しているだけ。
立てば芍薬。
座ればロキソニン。
歩く姿は百合の花。
そして、帰宅したら湿布。
私は今日も、問題なく歩いている。
誰にも見えない努力と一緒に。
ーーーー
了解。
そのまま 第3話・実本文 に進行する。
最終話なので、オチは強め/生活感で畳む/タイトル回収を明確にいく。
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第3話:座ればロキソニン
座ればロキソニン。
これは比喩ではない。
文字通りの事実である。
私は今、椅子に座った瞬間、バッグの中を探っている。
財布、鍵、スマートフォン、ハンカチ、目薬――違う。
もっと奥。常備薬ポーチ。
あった。
白いシートに包まれた、あの安心感。
これがあるから、私は今日も社会生活を送れている。
ロキソニンを飲むのは、敗北ではない。
戦略的撤退だ。
私は水を一口含み、錠剤を流し込む。
慣れた動作。迷いはない。
ふう、と息を吐く。
周囲から見れば、少し休憩しているだけの人だろう。
まさか「今、鎮痛剤をキメました」とは思うまい。
それでいい。
痛みというのは、声を上げると負ける。
私は負けない。
若い頃は、もっと無理をした。
痛みを我慢することが美徳だと思っていたし、「まだいける」「これくらい普通」という呪文を何度も唱えた。
結果、今がある。
身体は、ちゃんと覚えている。
調子に乗った日のことも、無視された日のことも。
ロキソニンは、その記憶と交渉するための道具だ。
しばらく座っていると、じわじわ効いてくる。
あの、痛みが少し遠のく感じ。完全に消えるわけではないが、「主導権はこちらに戻った」と思える程度にはなる。
私は立ち上がる。
慎重に。
急がない。
立てば芍薬――腰が言う。
まだ完全じゃないぞ、と。
分かっている。
今日は、ここまででいい。
歩き出す。
百合の花モードに切り替える。
途中、ショーウィンドウに映った自分を見る。
姿勢は悪くない。歩き方も、たぶんきれいだ。
中身までは、映らない。
それでいい。
帰宅する。
靴を脱ぐ。
バッグを置く。
そして、私は床に座り込む。
「ああ……」
誰もいない部屋で、ようやく声を出す。
今日一日の分。
湿布を貼り、ストレッチをして、湯を沸かす。
ルーティンは裏切らない。
テーブルの上には、ロキソニンのシート。
残り枚数を確認する。
――まだある。
それだけで、少し安心する。
立てば芍薬。
座ればロキソニン。
歩く姿は百合の花。
そして本当の私は、今日も無事に一日を終えた人間だ。
おじいちゃん、というには少し早い。
でも、無理はしない。
明日も生きるために。
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ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この話は、友人との何気ない会話から始まりました。
「立てば何とか、座れば何とか、歩く姿は百合?だっけ?」
「立てば、座れば、歩けば?喋れば髑髏とか?」
この二行を聞いた瞬間、
頭の中で「これはもう、美人の話じゃないな」と確信しました。
そこから先は、
どこまで崩せば原型がなくなるのか、
どこまで現実に寄せれば笑えるのか、
そんなことを考えながら書いた話です。
大げさに見える部分もありますが、
案外、全部身に覚えのある話だったりします。
もし読みながら、
「分かる」と一瞬でも思ってしまった方は、
今日は無理をせず、早めに休んでください。
立っても、座っても、歩いても、
どうか無事で。




