2-30.欠片
地上四階建ての病院は大通りに面しているが、この時間帯では、屋上にいる直人と徹の姿を確認するのは難しい。そもそも屋上は関係者以外立ち入り禁止だ。暗闇の中、冷たい風が吹き抜けるたびに、直人の背筋がざわつく。まさか、事情聴取後に徹がわざわざ病院に寄るとは思っていなかった。
「話があるのなら、屋上ではなく病院の外に行きませんか?」
張り詰めた空気の居心地の悪さに耐えきれず、直人は冷静さを装いながらも徹に問いかけた。
やがて、じっと遠くを見つめていた徹がゆっくりと口を開く。
「平岡さんは最初から関心がなかったようだけど、君は違う」
徹の目が鋭く光った気がして、直人は一瞬身構えた。
「神崎君は優しい子だから、僕の歩き方をいつも気にかけていたね。僕が大丈夫だと言っても、それでもだ。でも、今の君は違う。──いつから僕の右足のことに気づいていたんだい?」
「な、何のことですか?」
直人の声がわずかに震えた。死者の残影を覗かなければ、徹の右足の負傷が嘘だと見抜けなかっただろう。実際、平岡も渡辺も徹の演技に欺かれていた。
「屋上に来る途中、わざと自然に歩いてみせたんだけど、君からのリアクションがなかった」
徹の言葉に、直人は息を呑んだ。
頭の中で、徹が殺人事件に関わっているという疑念が渦を巻き、無意識のうちに彼を敬遠するようになっていた。だが、そんな直人のわずかな変化──視線の動きや、呼吸の間。鋭い徹がそれを見逃すはずがなかった。
病院の階段を上るとき、徹は試すように自然な足取りで歩いた。だが、直人は動揺を悟られまいと、ただ黙ってその背中を追っていた。その沈黙こそが、徹に「直人はすでに知っている」と悟らせてしまった。
「探偵業にしては、君は嘘が下手だよ」
直人が言葉に詰まると、徹は不気味に笑った。
「渡辺社長は君のどこを評価しているのかと思ってたけど、見かけによらず鋭かったんだね。あの渡辺さんや平岡さんでさえも見破れなかったのに……演技にけっこう自信あったんだけどなぁ」
そう云いながら徹は背筋をまっすぐに伸ばすと、十歩ほど歩いて見せた。その歩幅はまるで兵士のような独特なリズムがあるものの、しっかりとした足並みだった。
「……気づいたのは、展望台に行った時ですが……軍に入っていたんですか?」
直人は観念し、徹の茶番を見抜いていたことを認めることにした。事務所に入社した頃、渡辺によく空港に連れてこられ、私服の警察官や自衛官を当てる特訓を受けたことがある。彼らは一定のリズムを刻む歩き方をする。
「君のそういうところが、割と鋭いってことだよ」
徹はいつもの茶目っ気のある口調で応えた。だが、今はその穏やかさがかえって不気味だ。
「何の目的で、渡辺事務所に入ってきたんですか?」
焦りを押し殺しながら直人が問う。徹は怪我をして警察官を辞めたことになっている。そして探偵に興味を示した。つまり特定の探偵事務所を探していた可能性がある。それが渡辺事務所だったのだろうか。
「色々と情報収集にね。渡辺事務所で働くのは結構楽しかったよ」
徹の受け答えはすでに過去形になっていた。正体がバレたようなものならば、徹も留まる理由もないだろう。ただ、このまま何事もなく去ってくれるのだろうかという不安が、直人の胸中を掠めた。
「油断するなって云われてたんだけどね。まあ、君のお陰で日本を去ることになりそうだよ。いいお土産もできたしね」
「お土産?」
徹の余裕のある態度に、直人は警戒しながら聞き返した。
「そう。君のバックグラウンドについてだよ」
「バックグラウンド……いったい何の話をしているんですか?」
一瞬、直人の脳裏に特殊能力のことがよぎり、体が硬直した。だが、徹が直人の能力に気づくはずがない。ならば銀行家である橘宗一郎の甥という立場なのか? 色々な思いが直人の頭を駆け巡っていたが、徹は気にすることなく話をつづけた。
「もっと早く気づくべきだったよ。まあ『神崎』なんて苗字は別に珍しくもないからね。それに向こうもとっくの昔に名前を捨てているから、今じゃ知る人も少なくなってるけど」
すると、徹の瞳が射抜くように突然鋭くなった。
「君は……あの人の息子だろう? 確か名前は隆一だったはず」
その名前が耳に入った瞬間、直人の表情が強張った。
──なんで父の名を知っているんだ!
まるで全てを知っているかのような徹の口調。これはハッタリなのか、それとも罠なのか。
「確かに僕の父の名前は隆一ですが……二十年前に他界しています」
直人は慎重に応えた。特に家族関係については明かすなと渡辺から忠告されている。だが、こうも易々と父親の名前を出されては、挑発に乗らざる得ない。
「へぇ、君は父親のことを何も知らないんだ」
徹の瞳が鋭く光り、直人を探るように数歩近寄った。
「僕が小学校二年生の時ですから、あまりよく覚えてはいません。人違いではないですか?」
何も知らないと云われれば、そうなのかもしれないが、他人から指摘はされたくない。そもそも、なぜそんな話になったのか? スパイは事前に相手の身元をとことん調べるらしいから、やはり徹もどこかが放ったスパイなのかもしれない。
「そういう意味じゃないよ」
徹は低く呟くと、直人をまっすぐ見詰めた。
「スイスにいる者の興味対象になっているのは渡辺社長じゃなくて、実は君のことかもしれないね。今は亡霊と呼ばれている、あの冷酷な男が──」
その瞬間、風を切るような静かな音が聞こえた。
直人の正面に立っていたはずの徹が、音もなく突然横に倒れる。その時、徹の頭から少量の血が飛び散ったのを、直人の目がはっきりと捉えた。
頭が真っ白になり、言葉を失ったその時、背後でドアが押し開けられる大きな金属音が聞こえた。
「直人!」
確認するように渡辺が名を呼んだ。だが、すぐに状況を把握したようで、即座に大声を張り上げる。
「突っ立ってないで、伏せろ!」
直人は慌てて体勢を低く落とすと、そのまま這うように渡辺の方へ移動した。
「高橋君が……撃たれ……ました」
凍り付いたような喉から、ようやく言葉を絞り出して渡辺に告げた。
「ああ、銃声は聞こえなかったな」
渡辺の声には緊張が滲んでいる。すぐさまポケットからスマートフォンを取り出し、急いで警察に連絡をする。
「一発だけです。風を切るような音は聞こえましたが、頭を……撃たれたと思います」
「狙撃者は近くの建物から狙ったんだろう。プロの仕業だ」
「高橋君は……スパイだったんですね……軍にも入隊していたようです」
「高橋徹は逸見寛の犬だ」
渡辺は上着の内ポケットから半分に折られた絵葉書を取り出すと、直人に渡した。
「これは……」
直人は絵葉書を受け取ると、そこに書かれた日本語にざっと目を通す。
警視庁に逸見寛という男が放ったモグラあり
去年のプロジェクト・エム瓦解からの因縁
目をつけられた可能性があるため、注意されたし
ピエールから送られてきた絵葉書を見詰めていると、徐々に人の声が聞こえてきた。顔を上げ、辺りを見回すと人が集まり始めている。渡辺の方に目を遣ると、警察に通報しながらも、殺人現場となる屋上には人が入らないよう指示をしていた。
徹が逸見教授のために動いていたのであれば、去年の青山涼の件で渡辺事務所は目をつけられたことになる。やはり警視庁に呼ばれたことに警戒をしていたのだろうか。上品な外見とは裏腹に、逸見教授の鋭い眼差しは、マジックミラー越しにこちらを鋭く見据えていた。
──じゃあ、誰が高橋君を撃ったんだ? どうして!
明らかに徹を狙い、そして一発で仕留めた。まるで口封じのように。
「なぜ屋上に高橋といたんだ? 解散したはずじゃなかったのか?」
警察との電話を終えたらしく、渡辺が尋ねた。
「警察の事情聴取の後に、病院に立ち寄ったようです。渡辺さんの電話を切った後、病院で僕を待ち構えていました」
その後、重光の病室へ行くはずが、途中で徹が直人が徹の足の件を見抜いたことを悟り、そのまま屋上に連れていかれたことを説明した。
「なるほど、足の怪我は芝居だったのか。で、なんであの爺さんが入院してるんだ?」
「腰が抜けて動けなくなったところを、喜久子夫人が透かさず肺検査させることにしたようです」
「さすが喜久子夫人だな。やっぱり検査などせずに憶測だけで騒いでたか」
「これで余命の件もはっきりすると思います。それから高橋君のことですが──」
一瞬躊躇ったが、警察が来る前に話しておきたかった。
「父さんの名前を知っていました。しかも、僕よりも知っているような素振りで──」
「隆一のことを知っている──」
一変して、渡辺の表情が強張った。
「はい。それで、僕か渡辺さんがスイスにいる者の興味対象になっていると話し始めたときに撃たれました。口封じだったのではないかと……」
「何を……云われたんだ?」
渡辺にしては珍しいほど緊張している様子が伝わってきて、直人は思わず言葉に詰まった。
「えぇっと……僕が神崎隆一の息子だとすぐには気づかなかった……それから、僕は自分の父親のことを何も知らないとも云われました」
「あいつが死んだのは二十年も前の話だ。何も知らないと云われても仕方ない。お前はまだ七歳にもなっていなかった」
「ええ、僕もそう思いましたが、そういう意味ではないと云い返されました」
そして殺される直前の徹の言葉を思い出し、一語一句そのまま渡辺に伝えた。
「スイスにいる者の興味対象になっているのは渡辺社長じゃなくて、実は君のことかもしれないね。今は亡霊と呼ばれている、あの冷酷な男が──と、ここで高橋君が倒れて──」
渡辺が持っていたスマートフォンを落とした。
「……大丈夫ですか? 渡辺さん?」
直人はスマートフォンを拾うと、思わず渡辺の顔を覗き込んだ。顔色が悪い。
「ああ、大丈夫だ。……高橋徹は口封じのために殺されたんだろう」
それだけ云うと、渡辺はスマートフォンを直人から受け取り、内ポケットにしまい込んだ。
「渡辺さん、なんで父さんは一人でコスタリカなんかに行ってたんですか?」
長年、直人が抱えていた疑問を振ってみた。恵子も宗一郎も理由を知らない。
「俺もなんであいつがコスタリカに行ったのかは知らない。俺たちは一緒にスイスに行ったが、俺はそのまま帰国……いや、今話すことではないな」
遠くから警察の車のサイレンが重なり始めた。
「先程まで警察の事情聴取を受けていた人間が殺されたとなると、警察はそちらの線を捜査するだろう。高橋との会話内容は上手く誤魔化しておけ。特にスイスの話はするな」
渡辺は直人の方に向き直り、的確に指示を出した。
「スイスに誰がいるんですか?」
直人は息を呑んで渡辺を見詰めた。いつもそうだ。渡辺は肝心なことを隠す傾向がある。
「危険な奴らが巣をつくっている場所だ」
やはり、なんとなく誤魔化された感じが否めない。
「でも、渡辺さんも父さんと一緒にスイスに行ったと先ほど云いませんでしたか?」
直人は必死に食い付いたが、
「ああ、二十年以上も昔の話だ」
渡辺はただ、静かに告げるだけだった。そして少し間を置くと、
「いつか、お前に話そう。だが、今ではない。近い将来、お前は──」
その時、何人もの警察官が踏み込んできた。渡辺は口を噤む。
警察官たちに対応する渡辺の横顔を見詰めながら、直人はこの時初めて薫の気持ちがわかったような気がした。
***
警察の事情聴取から解放されると、すでに時刻は九時を回っていた。今夜はこのまま自宅に戻り、事務所への報告は金曜日の朝になった。直人はポケットからスマートフォンを取り出すと、薫の名前を探し出し、ボタンを押す。
「どうしたの?」
電話の向こうから薫の声が響く。渡辺に似て、直人が口を開く前に何かを察したようだった。
「うん……なんか、薫さんの気持ちがわかったって……伝えたかっただけだよ」
スマートフォンを耳に当てたまま、直人は歩みを止めた。薫の声に少し緊張が混じる。
「何かあったのね」
「うん、まあ色々あったんだけど……」
今日、直人の周りで多くの人が死んだ。だが、あまり実感がわかない。徹の云う通り、自分は死体慣れしているのかもしれない。目の前で徹が倒れたときも、一瞬心臓が止まるかと思ったが、頭の片隅で客観視している醒めた自分もいた。
「このまま死体慣れしていくと、ある日、自分も怪物になり果てるんじゃないかって──」
「ねえ、今どこにいるの?」
薫が直人を遮るように尋ねた。
「え? ああ、横浜市内」
「じゃあさ、今からうちにおいでよ。町田ならそんなに遠くないでしょ?」
「でも、そちらに着く頃は十時頃になるよ」
冷たい夜風が体を包み、直人はふと空を見上げた。今夜は新月の夜だった。
「泊ればいいよ。お母さんも直人に会いたがってるよ。どうせ何も食べてないんでしょ? 今晩はホワイトシチューだったんだ。直人も好きでしょ?」
思い返すと、昼から何も食べていないことに気づいた。
「うん……じゃあご馳走になろうかな……」
直人は電話を切ると、自宅ではなく薫が住む町田に向かった。




