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メメント・モリ  作者: 星乃夜衣
【序章】死者の魂に共振する者
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7.新月の夜

 何が起きているのか理解が追い付かず、ただ目の前に繰り広げられる信じられない光景を、沙織は必死に追うことしかできなかった。二つの影は激しくぶつかり合い、周囲にある物を巻き込んで激しく散乱させると、そこから聞こえてくるのは荒い息遣いと鋭い拳、そして呻き声であった。


「直人! 夫人を頼む!」

 渡辺は有馬康弘の胸倉を大きな手で掴み、そのまま壁に押し付けると、もう片方の手でスマートフォンを取り出し、

「間に合った! ああ、警察より俺たちの方が早かった」

 それだけ云って電話を切った。


 直人は床に張り付いたままだった沙織を立ち上がらせ、

「もう大丈夫です、警察もこちらに向かってます!」

 しっかりした口調で励ますと、有馬から守るように抱きかかえた。


 直人は赤みを帯び始めた右眼で腕の中にある沙織の顔を覗き込んだ。妊娠している沙織が床に転がっているのを見たときは息が止まったが、沙織の額から直人だけが見える命の結晶はしっかりと輝いている。回避した危機に直人は安堵すると、沙織を抱えていた腕の力を緩めた。あとは警察が到着するのを待つだけだ──。


 沙織は自分を抱きかかえる直人と、目の前で有馬康弘の動きを止めた渡辺の二人に見覚えがあった。だが今はこの二人が最大の危機を救ってくれた事実に、ただただ感銘を受けるだけであった。


 次第に車の音が連なり、警察が到着したのだと実感すると緊張の糸が切れたのか、沙織の涙が堰を切ったように流れ出した。


 割れたガラス戸から何人もの警察官が山本宅に踏み込むと、渡辺は顔に血をにじませた有馬康弘から手を離し、両手を上げた。有馬は抵抗することもなく床に倒れこむと、死んだような目で沙織の泣き姿をただ焼き付けるだけだった。沙織は直人に抱えられながらしばらく嗚咽をあげていたが、そのまま気を失ってしまった。


 こうして山本沙織の一番長い夜は幕を閉じたのだった。


***

 

 気がつくと沙織は岩壁に囲まれていた。暗闇に包まれているが、なぜか居心地がいい。冷たい岩に腰を下ろすと、ここは洞窟なのだとわかった。見上げると岩壁の間から夜空が見え、無数の星が覗いている。今夜は新月の夜だった。


 目が慣れてくると洞窟の奥深くまでとらえることができた。星の青白い光が差し込み、まるで息吹が宿ったようにあたり一面が銀色に輝き始める。その神秘さに、いったいどれだけの間、惚けていたのか。気がつけば沙織の体も銀色の光をまとっていた。 


 沙織は不意に誰かの視線を感じた。

 振り向いたが誰もいない。ただ、岩壁に映った沙織の影があるだけだ。


「誰かいるの?」

 確かめようと一歩、二歩と歩き出してみたが、どこからともなく恐怖が沸き上がり足がすくむ。


「これ以上はダメ、進んではいけない気がする……」


 そう呟いて沙織が立ちすくんでいると意識がどこか遠くへ引っ張られた。

 周りが次第に明るくなり、目が覚めると沙織は病院のベッドにいた。


***


「あ、山本さん、目が覚めましたか? もう大丈夫ですよ、ここは病院です。安心してください」


 優しい笑顔の看護師に、沙織はハッとして腹部に手を伸ばした。

「大丈夫です。赤ちゃんはちゃんと育ってますよ」

 そう云うと、看護婦は点滴を交換した。


「ストレスが一番よくありません! まったく弁護士やら警察やら、色々な人たちが面会を求めてますけど後にしてもらいましょうね!」

 ブツブツ云いながら、看護師はテキパキと仕事を済ませるとにっこり笑って病室から出て行った。


 沙織は上半身をベットから起き上がらせると、病室の窓から見える景色を眺めながら、ここ二日間の嵐のような出来事を思い返した。


 面会を強要され、話し合いの時間を作らなければ、家に乗り込んでくる勢いだった有馬を恐れた沙織は、咄嗟に夫のブランデーに睡眠薬を忍び込ませた。玄関のドアを開けるつもりはなかったが、巧みな話術に嵌った沙織は弱みに付け込まれると、足をドアの間に挟まれ侵入されてしまった。どうにかしてそれ以上の侵入を食い止め、玄関先で有馬と話し合ったが、怒りを焚きつけるだけであった。さらに昨夜は家に押し入られて、命の危険まであった──。


 嵐が日常を奪い、そして激しく乱し、沙織の夫の命を奪っていった。だが、もう一つの命までは奪わなかった。それだけが今は沙織にとって大きな救いである。そして有馬康弘は警察に身柄を拘束され、二度と会うことはない──。まるで全てが遠い過去のようである。

 ──この行き場のない喪失感は、時間が解決してくれる──

 そう思うことで少しずつ前を向こうという決意が沙織の中で湧いてきた。


 沙織は腹部に右手をそっと優しく添えると、そこに輝きつつある命の結晶を守り切ったのだという高揚感が頬を染めた。

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