2-20.不手際
「それにしても管理が随分ずさんだな。素人にインボイスを見られるどころか、写真に撮られるとは何事だ」
電話の向こうから、不機嫌そうな低い声が夜中の事務所に響く。
「申し訳ございません。完全にこちらの不手際です。今後は二度とこのようなことが起きないよう、厳重に管理を徹底いたします」
佑蔵は控えめな声で丁重に詫びた。
「それで、写真は消したのかね?」
いかにも官僚らしい、少し鼻にかかったような云い方だ。
「はい、すべて消去しました。添付して誰かに送った履歴もありません」
佑蔵は冷静を装いながら、問題が解決したことを強調した。
「それにしても、すごい技術だな。狙い撃ちできる精密度じゃないか」
「はい。現在の衛星測位技術は数センチの精度だそうです」
「それじゃあ電気自動車など危なくて乗れんな、はっはっはっ」
冗談めかした茶化すような声が伝わってくる。佑蔵は唇を歪ませたが、黙って話を聞くことに徹した。
「では、次も頼むよ」
次回を期するように告げられ、一方的に電話が切れた。
暫くの間、佑蔵は険しい表情で沈黙していたが、深く息を吐くと、椅子の背にゆったりと体を預けた。その時、洒落た帽子をかぶった上品な老紳士が佑蔵に声をかけた。
「お察しいたします」
老紳士は佑蔵の事務所に設えられた黒皮のソファにゆったりと腰を下ろしている。先ほどから、佑蔵と官僚の電話のやり取りを静かに聞いていたが、その表情には驚きも苛立ちもない。むしろ、すべてを見通しているかのような余裕さえ感じさせる。
「官僚というのは……私はどうも苦手ですね」
佑蔵は疲労感を漂わせながら呟くと、口元に僅かな微笑を浮かべている老紳士に視線を向けた。
「皆、それぞれ役割があるのです。彼らの性質をよく理解し、上手く操縦すればいいだけのことです」
まるで談話を楽しむかのように老紳士は口を開いたが、佑蔵を見詰めるその瞳にはどこか鋭さが宿っている。
「操縦……ですか……」
佑蔵は眉を寄せながら、老紳士の言葉を反芻するように呟いた。
「とはいえ、こちらはあくまでも金融機関ですので、取引相手の事情などには興味ありません。ただし、顧客の資産が損なわれるとなると話は別です。……では、問題が解決したことを私の方から上に報告しておきましょう」
そう云い切ると、老紳士は優雅な動きでソファから立ち上がった。その仕草は洗練されており、一つ一つの動作に無駄がない。
「それにしても彼女は警察の手の者だったのでしょうか? こちらで雇う前に身元調査をしましたが、そのようなことは全くありませんでした……」
佑蔵は少し混乱した様子で老紳士に問いかけた。ギャラリーで人を雇う時は念入りに調査をしている。秋田出身で美大卒の佐藤優子に、そのような経歴はなかった。
「いいえ、亡くなった女性は警察とは無関係です。これは……そうですね、こちらにも少々不手際があったということです。ですからこちらで迅速に対応させていただきました」
口元に微笑を浮かべ、老紳士は穏やかに応えた。
「不手際……?」
佑蔵が眉を顰めた。
「ええ、こちらも警察内部に情報提供者を抱えていますので、動きは把握しています。今では多くのタスクがサイバー空間に移動していますが、結局のところ、生身の人間を相手にするわけですから、昔ながらのアナログ的な方法は重宝されますね」
老紳士は静かに応えるも、その瞳には依然として鋭い光が帯びている。
「つまり、警察の中に……スパイを、忍ばせている……ということですか?」
言葉が途切れ途切れになりながらも、佑蔵は恐る恐る老紳士を見上げた。
「我々には高度な秘密保持性を維持し、顧客の資産を守る義務があります。去年の秋、ある方が運用していたプロジェクトが警察沙汰になり、口座が凍結される事件がありました。その際、どこからか情報が漏れたようで、私も警視庁に呼ばれました。もちろん状況を探るためにあえて取調に応じた次第です。とにかく今回の件は、我々サイドの人間の情報不足によって引き起こされたことは否定できません。ですから、遺族の方には匿名で適切なケアを行うつもりです」
佑蔵には銀行側の意図が掴めなかったが、日本の現実に改めて驚かされた。警察内部に情報提供者がいるなど、日本がスパイ天国と揶揄される理由を理解せざるを得ない。そこに表からでは見えない世界の深さを垣間見るような気がした。
「では、私は来週の水曜日にルクセンブルグへ戻ります」
老紳士は軽く頭を下げ、佑蔵に別れを告げた。
「ありがとうございました。逸見教授」
とりあえず問題が解決したことに安堵すると、佑蔵は逸見寛の背を見送った。




