2-12.誘惑
佐藤優子はゆったりとしたベルベット調の椅子に深く腰掛け、一枚の名刺を指で何度もなぞっていた。店内の照明は落とされ、大人の雰囲気というよりは幻想的な雰囲気が漂う銀座のバーだ。月曜日の夜、こんな場所に一人で座っていること自体、優子にとっては非日常だった。
なんだか落ち着かず、優子は携帯電話を取り出すと、届いたメッセージをもう一度確認した。約束の時間はとっくに過ぎている。
「ごめん、ごめん。誘っておいて遅れるなんて失礼だよね」
軽快な声が耳に届き、奥の席にいた優子のもとへ徹がやってきた。徹は人懐っこい笑顔を浮かべると、右足を庇うように隣の椅子に座り込んだ。
「いいえ、大丈夫です」
優子は頬が紅潮するのを感じた。自分がからかわれているのではないかという不安をかき消すかのようにグラスに口をつける。
「何を飲んでるの?」
「よくわかりませんが、フルーツ系の甘いカクテルです。とても美味しいです」
ウェイターが二人の座るテーブルに近づくと、徹はスコッチを注文した。
「あの時、名刺をいただけるなんて思いもしませんでした」
優子はポケットから一枚の名刺を取り出し、もう一度じっくりと見詰めた。白地にシンプルな字体で記された電話番号と『美術商 水沢稔』の文字。まさかあのどさくさに紛れて、名刺をさり気なくポケットに忍ばされるとは思わなかった。
奥のオフィスから輸送業者が出て来た時、徹の目が一瞬だけ鋭く光った気がした。だが次の瞬間には、徹は優子のジャケットのポケットに名刺を滑り込ませていた。その動きには無駄がなく、あたかも身体に触れるかのように見せかけ、指先はジャケットの生地をかすめるだけだった。
『仕事が終わったら、僕に電話して』
低く囁かれた声が耳をかすめ、優子の心臓が跳ね上がった。かっと頭が熱くなるのを感じながら、慌てて周囲を見回したが、誰も気づいていない。
徹はにっこりと微笑むと、何事もなかったようにその場を離れた。右足をわずかに引きずっているはずなのに、その動きは優雅で、ギャラリーのドアが開く音すらしなかった。
──美術商 水沢稔さん──
最初に名刺を見た時、三浦ギャラリーのライバルではないかという疑念が優子の頭をかすめた。だが、仕事を終えると、ためらう間もなく彼に電話をかけていた。そして気がつけば、彼の誘いに応じ、こうしてこうして会いに来てしまっている自分がいる。
「僕は美術コレクターなんだ」
「ええ、名刺からそのように伺えます」
優子は慌てて返した。
「それで、例の西園寺一成の絵についてなんだけど」
「はい」
「売約済みなら、その作品の行先を教えてほしい」
「そ、それは……」
優子は困惑して言葉を詰まらせた。
「彼のパトロンから直接買い取ろうと思っているんだ」
徹はいつもの人懐っこい笑顔を引っ込めると、真剣な眼差しで優子を見詰めた。
「怪しい話じゃないよ。ただ、彼の作品が海外に流れてしまうのを食い止めたいだけなんだ。どうやら彼の作品は、美術館に展示されるわけでもなく、どこかの倉庫に保管されるだけみたいじゃないか。そんなの、画家としてはどう思うだろう?」
徹の低く落ち着いた声が響き、先ほどまでの軽い雰囲気が一変した。
「実は……私も詳しいことは知らないんです」
優子は徹の静かな圧に押されつつも、辛うじて応えると、その緊張感からか、グラスを一気に傾けた。
「西園寺さんの作品だけは特別扱いされてるよね。展示会が終わるとすぐに出荷されて、詳細は非公表。おかしいと思わないかい?」
「確かに……そうかもしれません」
徹の言葉には熱がこもっていて、優子の胸に直接響いた。確かにパトロンが支援してくれるのは作家としてありがたいだろうが、倉庫に作品が保管されているだけとは初耳だった。
「彼の作品をもっと世に広めたほうが、画家である彼のためにもなると思うんだ。展示会で熱心なファンがいたのを見ただろう? 彼の作品がもっと多くの人の目に触れるべきじゃないかな」
「そうですね……そうなれば、西園寺様ももっと有名になるかもしれません」
アルコールの影響なのか、徹の真剣な眼差しに、このまま身を任せてしまいたいと思えてくる自分に気づき、優子は頬を赤らめた。
「そうなれば、君の働く画廊にもプラスになるはずだよ」
「はい、水沢さんの仰る通りかもしれませんね」
優子は気分よく、朗らかに笑い出した。すると、徹もいつもの人懐っこい表情に戻り、声のトーンを柔らかく落とした。
「ところで、佐藤さんは三浦ギャラリーでどれくらい働いてるの?」
「美大を卒業してからですから、二年近くになります」
徹の柔らかな声に触発されたのか、優子の表情がさらに和らぎ、声にも自然と親しみがこもるようになった。
「出身はどこ?」
「秋田県です」
「へぇ、奇遇だね。僕も東北出身なんだ」
「まあ、水沢さんもですか?」
優子が驚いたように目を丸くする。その仕草がどこか子供っぽかったのだろう。そんな優子を見て、徹は思わず口元に微笑みを浮かべた。
「だから佐藤さんは肌が白いのかな? 秋田美人か」
「まあ、そんな──」
優子は頬が紅潮するのを感じ、恥ずかしさを隠すように慌てて話題を切り替えた。
「じゃあ、水沢さんは西園寺様のバイヤーの情報が必要なのですね」
「うん、直接買い取れるか手配したいからね」
徹は優しく微笑みながら優子を見詰めた。
「わかりました。それとなく探ってみます」
「ありがとう! 本当に助かるよ。それで……また会ってくれるかな?」
控えめに、だがどこか特別な響きを含ませるように徹が尋ねる。
「はい! 喜んで」
優子は弾けるような笑顔で応えると、熱い眼差しで徹を見詰めた。




