4-23.捻じれ
「待たせたな」
監察医務院の受付に足を踏み入れた荒木は低い声でそう告げると、その迫力ある三白眼を直人に向けた。時刻はすでに夕方五時を回ろうとしている。
「お久しぶりです、荒木一課長警視。急なお願いにもかかわらず、ご対応いただきありがとうございます」
相変わらずの強面に思わず一瞬怯みそうになったが、椅子から立ち上がって深く会釈する。ここは国内最大規模と謳われる監察医務院。直人にとっては馴染みのある場所だが、緊張はいつも消えない。
「ようやく検案が終わった。……顔だけを確認してもらう、という認識で間違いないな?」
荒木は苦々しく呟き、確認するように問う。
「はい。問題ありません」
直人が即答すると、荒木は無言で頷き、先に立って解剖室へ向かった。
ひんやりと冷えた解剖室に足を踏み入れた瞬間、金属と消毒液の匂いが鼻を刺す。冷たい蛍光灯の光が白く床を照らし、白衣の医師たちが静かに後片付けを続けていた。
直人は荒木の後ろから解剖台へ歩み寄る。荒木が三白眼で合図を送ると、医師の一人が近づき、白布を肩の位置までそっとめくった。
そこに横たわっていたのは、やはり玉木ミカだった。
血の気を失った頬。舞台の上で観客を挑発するように笑った唇は、今は固く閉じられている。
「……眉間に一瞬だけ触れさせてください」
横に立つ荒木が黙って頷いたのを確認すると、直人は一歩踏み出した。
次第に直人の右眼が赤みを帯び始めるが、誰も気づいていない。目の前の青白い遺体の眉間には、今でも微かな光が灯っている。直人だけが視ることのできる小さな輝きだが、それを〝命の結晶〟と呼んでいる。
次の瞬間、左の虹彩に青や緑の斑点が浮かびはじめる。直人はためらうように指先を伸ばし、死者の眉間にそっと触れた。
「……死者の記憶と尊厳を汚す者だが、どうか許したまえ」
解剖室の冷たい静寂に、祈りとも懺悔ともつかぬ低い呟きが落ちた。
***
混濁した視界が次第に輪郭を取り戻した瞬間、鋭い声が直人の耳を打った。
「出ろよ。電話……鳴ってるぞ」
目の前に長谷川蓮がいた。射抜くような眼差しで、こちらを一瞬たりとも逃がすまいと見据えている。だが、よく見ると指先がかすかに震えていた。どうやら玉木ミカの記憶に共振したようだった。ミカは肩を大きく上下させ、泣き腫らした瞼を重たそうに瞬かせている。
直人は意識をミカの記憶にゆっくり合わせる。サイドテーブルを挟んでキャメル色のレザーソファの端に互いが腰掛けているが、蓮は今にも飛びかかるように前傾していた。どうやら部屋には二人しかいないようだ。スマートフォンの着信音が何度も響き、重苦しい空気をさらに締めつける。
──ここは根尾拓真のマンション──
直人は直感した。
落ち着いた色合いのインテリア、本棚を埋めるレコードや音楽雑誌。だが一角だけが異様だった。床に無造作に置かれたステレオ一式、粉々に砕けた大きなテレビ画面。フローリングに散った破片が、つい先ほどの激しい争いを物語っていた。
それにしても、どうやって蓮は根尾拓真の部屋に入れたのだろうか。疑問が残るが、直人が死者の記憶を覗けるのはせいぜい五分ぐらいだ。きっと何かがきっかけで根尾拓真と玉木ミカが繋がっていることを、蓮なりに突き止めたのだろう。
やがて、着信音が途切れると、部屋に沈黙が落ちた。ミカがかすれた声で口を開く。
「……現金は返します。ごめんなさい……」
喉は涙で枯れ、言葉が後切れた。
「そういう問題じゃない。……被害者はオレだけじゃないんだろ?」
蓮の声は低く、怒りを押し殺している。ミカは唇を噛み、ただ俯いた。
「お前に五百万貸したという男と知り合った……ネクロマンテイア最後のショーでステージに上がった男だ」
直人の心臓が跳ねる。それは蓮に近づくためについた嘘だった。
「えっ……?」
ミカの手が一瞬止まり、わずかに首を傾げる。
「それにしてもネオも相当悪趣味だ……自分の女をオレのもとに送るとはな。……あのステージの客ともやったのか?」
「は? そんな男、知らないわ!」
絞り出すようにミカは反論したが、声は震えている。直人の背筋がぞくりとした錯覚にとらわれた。
──玉木ミカと根尾拓真は恋人同士……
だが、恋人を他の男に差し出してまで〝仕事〟を続けられる根尾の神経は、直人からしてみれば明らかに常軌を逸している。ミカ本人は、それを本当に望んでいるのだろうか?
「嘘つくな!」
鋭い蓮の怒声に、直人ははっと我に返る。
「さっきロビーでネオが云ってたな。〝新しいターゲットの下調べしろ〟って!」
──新しいターゲット……
鈴木ケイの弟とも関係があったのか──いや、それだけではない。まだ他にも、同じ被害に遭った者がいるのかもしれない。
次第に視界がぼやけ、喉の奥が締め付けられるように苦しくなった。唇を噛んだ痛みとともに、視線は自然と床に落ちる。死者の記憶を数分なぞるだけだから、ミカの脳裏に何が浮かんだのかは知る由もない。
それでも、きっと何か後ろめたい記憶に触れたのではないか。そんな考えが直人の頭をかすめる。喉の奥が乾き、背筋の奥で冷たいものがゆっくりと這い上がってくる。
その瞬間だった。
ガタン、と玄関の方で何か硬いものがぶつかる音が響き渡った。
部屋の空気が一気に張り詰め、ミカの体がびくりと硬直すると同時に直人の心臓が跳ねた。
顔が思わず音の方へ向く。蓮も振り返ったが、座った姿勢のままでは反応が遅れた。腰を浮かせた瞬間にはもう遅く、影が部屋に飛び込んでくる。
次の瞬間、力強い腕が振り抜かれ、鈍い衝撃音が狭い室内に響き渡った。
「きゃあっ!」
ミカの悲鳴が場を切り裂き、視界の端で蓮の体がソファから転げ落ちるのが見えた。衝撃で、コーヒーテーブルの上にあった厚いガラス瓶が揺れ、花弁や水滴が飛び散る。
飛び込んできた影は、根尾拓真だった。
感情の色を完全に消した顔で、床に倒れた蓮をただ、無言で見下ろしていた。




