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メメント・モリ  作者: 星乃夜衣
【第四章】裏切りの因子
130/140

4-19.先制

 夜の渋谷は湿った熱気をまとい、金曜日の夜とあって街全体が低く唸るようにざわめいていた。


 平岡茂は雑踏に紛れるように歩き、クラブの入口前で立ち止まる。ここは、数日張り込んだ末にたどり着いた場所だ。耳を澄ませば、遠くから重低音と笑い声が交じり合い、熱帯夜をさらに煽っている。


 中規模のクラブだが、扉をくぐれば空気が一変した。

 低音が腹に響き、照明が断続的にフロアを切り裂く。人混みと酒の匂いが混ざり合い、金曜の夜らしい熱狂ぶりが立ち込めている。平岡は表情を変えずにバーへ向かい、グラスを受け取ると壁際の暗がりに身を寄せた。いつもの背広ではなく、シンプルなジャケットに小綺麗なTシャツ──クラブに溶け込むためには十分な装いだ。


 切れ長の目でフロアを一望する。中央では若者たちが跳ね、DJブースにはヘッドホンを首にかけた長身の男が立っている。


 ──根尾拓真。やっぱりこのクラブにいたな──

 ターンテーブルに指先を走らせる根尾の姿は、ネクロマンテイアでのステージよりも生き生きしているように見えた。


 混雑したフロアは逆に都合がいい。平岡はグラスを口に運ぶふりをしながら、照明の届かぬ壁際に身を沈め、獲物を狩る狩人のように目を細めた。腕時計をちらりと見ると、もう日付が変わろうとしている。ブースにも次のDJが入り、軽く言葉を交わす様子が目に入った。そろそろ交代の頃合いだ。


 やがて曲がフェードアウトし、照明が柔らかく切り替わった。若手DJが後任をスムーズに引き継ぐと、根尾はブースを降りて脇の通路へ移動する。


 平岡の指先がわずかに動いた。

 ──まずは、この男だ──


 どこかに身を潜めている玉木ミカの尻尾を掴んで引きずり出すには、相手を油断させる必要がある。長谷川蓮がウロウロと街をさまよっている限り、彼女は自発的に出てこない。


 平岡はグラスを置くと、人混みに紛れるようにしてブース脇の通路へ消えた根尾のあとを追った。

 廊下に足を踏み入れると、フロアの熱気や歓声は遠のき、低音がかすかに壁を震わせる程度になった。平岡は根尾の背中を追いながら、声をかけるタイミングを計る。


「根尾さん」

 背後からの呼びかけに、根尾は振り向き眉を寄せる。

「……誰ですか?」

「エンターテインメントを手掛けている者です」


 平岡は名刺を差し出す。もちろん本物ではない。番号とプロダクション名が印字されている名刺だが、仮想的な接触用だ。万が一、相手が番号をかけても、幸恵が応答するようになっている。


「ネクロマンテイア解散は残念でした……そこで根尾さんにはぜひ、ウチの新企画に参加してもらえないか、と。舞台ですが、興味はありませんか?」 


 平岡の勧誘に根尾は一瞬目を伏せる。名刺にちらりと視線を落とすが、特に興味があるわけでもなさそうに、軽く笑いながら受け取ると、そのままポケットにしまった。


「舞台なら、レンのほうが向いている。アイツはもともと俳優志望だ……オレは昔から音楽担当だったからな」


 想定内の返答だった。それに根尾拓真に本気でこちらに興味を持たれても困る。平岡は頷き、慎重に話を誘導する。


「ええ、長谷川さんにも連絡はしました。ですが、彼は松永さんと一緒にアメリカに行くそうで、断られました。もう出国の準備を済ませ、明日の土曜日に日本を発つようです」

「えっ? そんな急に……?」


 根尾の眉がわずかに上がる。こちらの思惑通りだった。平岡は相手の小さな表情の変化も見逃すまいと目を凝らす。


「はい。理由はわかりませんが、すぐにでも日本を離れたい様子でした。マネージャーの松永さんとは現地で落ち合うようです」


 長谷川蓮の動向を根尾に植え付ける。噂は人づてに広まり、やがて玉木ミカにも届くだろう。事務所では同時にソーシャルメディアから情報を流し、どちらが先に伝わるかは時間の問題だ。


「……まあ、松永さんと仕事をするのは、レンにとって悪くないだろう。オレは……あまり馬が合わなかったけどな」

「松永さんとですか?」

 根尾が松永邦男とあまり合わなかったという話は初耳だった。

「ああ。レンを通して知り合ったから、よく知らないんだ。手品の仕掛けとか……じゃあ、オレはこれで」


 根尾が踵を返そうとした瞬間、平岡は玉木ミカの名前を口にする。


「では、玉木ミカさんは? 彼女にも声をかけたいと思ったのですが、電話番号が解約されてしまっていて」


 根尾は立ち止まり、少しだけ振り返る。


「ミカ……? 知らないな、あんな女のこと。今頃どこかで悠々としてるだろう」

 それだけ云うと、根尾は通路の奥に消えていった。


***


 渋谷駅までの雑踏を抜け、平岡は深夜の電車に乗り込む。車内は終電間近でまばらな乗客しかおらず、ざわめきは遠い。


 座席に腰を沈め、低く揺れる電車のリズムに身を委ねながら、平岡は視界の端にちらつく広告を無視し、耳だけを周囲にすませた。誰もが疲れ切った顔でスマートフォンに向かい、話し声もほとんどない。


 渋谷のネオンの残光は遠ざかり、車窓に映る街並みは次第に落ち着きを取り戻していく。高層ビルの灯りが途切れ、やがて低く並ぶ住宅の窓にちらほら明かりが見えるだけになる。


 揺られること三十分あまり、飯田橋駅に着いたころには日付が変わって久しかった。改札を抜け、神楽坂へと向かう。時刻はすでに深夜一時。バーなどはまだ営業しているところが多いが、路地に入れば人通りはかなり減る。それでも、かすかな話し声が聞こえてきた。


 低い建物が並ぶ通りの角に面したアンティーク調の重い扉を躊躇なく開く。


「いらっしゃい」

 杏子の切れ長の眼がカウンター越しに平岡を捉えると、にっこりと笑った。平岡は静かに頷くと、そのまま奥の通路を抜け、薄暗い地下へと向かう。


 地下室のドアを押し開けると、ソファの背にもたれた渡辺の姿が目に入った。平岡は一歩踏み入れ、ドアを静かに閉じる。途端に、バーのざわめきが遠い世界の出来事のように消えた。


「根尾拓真と接触しました」

 ソファに腰を深く沈めると、平岡は肩の力を抜いた。

「おつかれさん」

 渡辺がわずかに顎を動かし、視線を投げる。


「名刺は受け取りましたが、興味なさそうでした。明日、長谷川蓮が日本を発つと聞いて、驚いていましたが……玉木ミカの居所は知らないようです。それから、彼は松永邦男とはあまり交流がないようですね」


 渡辺は静かに報告を聞いていたが、最後に〝松永邦男〟の名前が出たことで、わずかに眉を上げた。


「松永邦男を洗ってみたが、奴は火曜日の午後の便でサンフランシスコへ発つらしい。とにかく、一日中ソーシャルメディアで長谷川のアメリカ行きを流しておいた。玉木ミカは絶対に反応する。隠れているのなら、なおさら情報に敏感なはずだ」


「……肝心の長谷川本人は何と?」

 平岡の問いに、渡辺はソファの肘掛けに片肘を乗せ、視線を落としたまま答える。

「神崎が今日、再度接触して、ようやく協力してくれるところまでこぎつけた。明日から当分の間、大阪に身を隠してくれる。……彼も、何やら思うところがあるらしい」


 平岡は軽く息を吐き、天井を一度仰いだ。

「二か月前に五百万、そして今回七百万……最近だけで一千万を越えますね」

「そうだな」

 渡辺がわずかに口元を歪める。


「長い間、身を潜めるってのも、なかなか大変だぞ。すでに一週間も彼女は不自由を強いられている。若ければ、そろそろ羽を伸ばしたい頃だろう」 


 言葉の端に微かな含みを残し、渡辺はゆっくりとその精悍な目を伏せた。

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