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メメント・モリ  作者: 星乃夜衣
【第四章】裏切りの因子
129/140

4-18.二つの可能性

 翌朝、直人は重たい足取りで事務所の扉を押した。

 調査は振り出しに戻ったどころか、さらに遠ざかった気がしてならない。昨夜、体当たりで長谷川蓮と接触したはずなのに、結果はまるで雲を掴むようだった。


「おはよう、神崎君」

 明るい声が、冷えたオフィスの空気を和らげる。視線を向けると、幸恵が霧吹きを片手に緑の葉に光る雫を散らしていた。その光景に、直人は思わず昨夜見た蓮の部屋の、しおれかけた植物を思い出し、胸の奥にうっすらと苦い思いが広がる。


「……おはようございます」

 かすれかけた声で挨拶を済ませると、直人は真っ直ぐ渡辺のいるガラスルームへと向かった。軽くノックし、ドアを開けると、渡辺が顔を上げる。

「おはよう」

 短く応じた声は低く落ち着き、髭の伸びかけた顎が目につく。直人は椅子を引き、深く腰を下ろすと覚悟を決めたように口を開いた。


「おはようございます、渡辺社長。昨夜の件、報告します」

「まずはお疲れさん。一人でよく動いてくれた」

 渡辺は優しく微笑んだが、直人の胸に重石のように沈んでいた気持ちは晴れない。


「正直、進展はありません。というか……振り出しに戻った気がしてなりません」

 直人は昨夜の出来事をかいつまんで語った。


 長谷川蓮は玉木ミカと二か月間同棲していたのにもかかわらず、彼女についてほとんど何も知らなかった。しかも彼女は偽名を使っている可能性さえもあるという。手がかりはさらに遠のき、どこから手をつけるべきかすら見えない。報告しながら、言葉が重く喉にからみ、今すぐにでも投げ出したいという衝動が頭をよぎった。


「……なるほど。状況は把握した」

 渡辺は短く頷き、机の上のボールペンを取り上げると、真新しいメモ用紙を直人の前にすっと滑らせた。


「さて、頭を整理しようか。こういう時こそ、一度全部並べて見てみるんだ」

 ペン先が紙を叩く軽やかな音が、妙に心地よく響いた。直人は深く息を吸い、背筋をわずかに伸ばした。


「まず、先週の土曜だ。ショーの後に帰宅した玉木ミカは、短時間で長谷川蓮のマンションから七百万円を奪い、そのまま姿を消した。その後、長谷川蓮自身がミカの行方を追ったが、掴めた手がかりはゼロ。──それはつまり、計画的な犯行だった、ということだ」

 二か月間同棲していた仲なのにもかかわらずだと、付け加えると、渡辺は苦笑いを浮かべた。


「最初から、そのつもりで玉木ミカは長谷川蓮に近づいた可能性がある。そうなると、可能性は二通りに分かれる──」

「二通りですか?」

 直人は思わず聞き返した。

「そうだ。個人か、組織かだ」


 渡辺はペンを止め、顎に手をやった。伸び始めた髭を撫でる仕草が妙に落ち着いて見える。


「もし組織が絡んでいるなら、鈴木ケイの弟を恐喝した件も、単なる彼女の思いつきじゃなく、連携して動いていた可能性がある。もちろん、組織といっても大掛かりじゃなくていい。数名の共犯者──それで十分だ」


 ボールペンの先が紙を滑り、幾つもの矢印が描かれていく。渡辺の声は淡々としているが、どこか鋭く、紙面に描かれた線がじわじわと直人の胸を締めつける。


「つまり……ソロプレイヤーか、または詐欺集団か……ということですね」

 直人が確認するように顔を上げると、渡辺は短く頷いた。


「そうなると、松永邦男が彼女をネクロマンテイアに連れてきたという部分が引っ掛かる」


 渡辺の言葉に、直人は昨夜の会話を思い出す。蓮も、松永邦男が玉木ミカを連れてきたようなことを云ってはいたが、どこか曖昧な答えだった。


「確かに僕も長谷川蓮から直接聞きました。〝ある日、松永さんが連れてきた〟と。詳しいことは、本人もよく覚えていないようでしたが」

「ああ、ただ松永という男が連れてきた割には──」

 渡辺の目が一瞬だけ鋭くなる。

「携帯番号の履歴を調べても、松永邦男と玉木ミカの間には繋がりが見えてこない」

「えっ? じゃあ、彼女がネクロマンテイアに入る前の通話履歴は……?」

 直人の声は自分でも驚くほど強張っていた。


「ネクロマンテイアに入ったあたりから携帯の契約が始まっていた。つまり、彼女の過去の履歴が手に入らない。その徹底ぶりが……逆に気になる」

 渡辺はペン先を軽く弾いた。小さな音が、事務所の静けさに落ちる。

「慎重すぎる。きっと裏に共犯者がいるんだろう──そう考える方が自然だ」


 直人は喉を鳴らした。複数で動いているのであれば、計画的だったと思わざる得ない。玉木ミカが長谷川蓮に近づいたことも──。


「そうなると、今は共犯者たちが彼女をかくまっている可能性が高い。となれば、普通に探しても見つからんだろうな」

 渡辺の声は静かだが、どこか断ち切るような冷たさを含んでいた。


「じゃあ、どうすれば……」

「最悪の場合は警察に相談するしかない。ただ、タイミングが難しいな。ケイさんの弟が亡くなってから、もう二か月だ。長谷川蓮は、警察に行く気はないのか?」

「ないと思います。……たぶん、まだ彼女のことが好きなんだと思います」


 蓮の涙が頬を伝った昨夜の光景が、鮮明によみがえる。ある意味、そこまでのめり込める相手がいるというのも、羨ましい話だ。


「そうか……悪い女に惚れる男ってのは、案外多いからなぁ」

 渡辺は小さくため息をつくと、ボールペンを机に置き、深々と背もたれに身を預けた。


「となると、残された道は一つだ。松永邦男、それから根尾拓真、そして六本木のライブハウスのスタッフに聞き込みを入れる。それと、ソーシャルメディアで呼びかける方法も考えよう」


「わかりました。平岡さんが根尾拓真を見張ってますから、僕は松永邦男に接触してみます。その後、ライブハウスのスタッフにも──」

「直人」

 ゆっくりと、名前を呼ぶ渡辺の声が遮るように低く落ちた。

「今日は帰って休め」

「えっ……でも──」

「ここのところ、炎天下で張り込み続きだろう。休めるときに休むのも、探偵の務めだ。体を壊したら元も子もない」

「でも、平岡さんだって……」

「平岡は自己管理が上手い。俺たちがショーを見に行った日は、しっかり休んでいた。あいつを見習え」


 直人は言葉を失った。


「……それに、薫に怒られたさ」

 渡辺は苦笑を浮かべ、指先で顎を撫でた。

「〝お父さん、直人を働かせすぎ〟ってな。今回の依頼が片付いたら一緒に行くんだろう? 山梨にある……隆一の墓に」


 直人は驚き、顔を上げる。


「いいと思うぞ。……あいつも喜ぶだろう」

 胸の奥が熱くなるのを感じながら、直人は深く頷いた。


「松永邦男は俺が洗う。まあ、玉木ミカに繋がる確率は低い気がするがな。解散後の情報は手に入ったか?」

 渡辺は軽く椅子に座り直し、腕を組んだ。


「はい。長谷川蓮は松永さんに誘われて、アメリカに行くことを考えています。それから根尾拓真は音響の仕事に戻ったようです」

「わかった。じゃあ、明日の金曜日から週末にかけてひとつ仕掛けてみるぞ」

「仕掛ける?」

 思わず聞き返すと、渡辺の口元にわずかな笑みが浮かんだ。


「長谷川蓮が松永邦男と渡米したと噂を流す。そうだなぁ……彼には協力してもらってしばらく身を隠してもらおうかな……いっそ本当に日本を出てくれればいいけどな。とにかく、噂を耳にした玉木ミカは油断して出てくるかもしれない」

「なるほど」


「だから今日はよく休んで、また明日から頑張ってもらうぞ」

「わかりました」

 一礼してガラスの扉を押し開けると、幸恵が微笑みを浮かべていた。


「しっかり休んでね、神崎君」

「ありがとうございます。では、お先に失礼します」


 直人は小さく頷き、足を進める。胸の奥には焦燥と決意が交錯し、汗ばんだ額をそっとぬぐった。


 夏の光が街路に降り注ぎ、歩道に影を長く伸ばす。直人は振り返り、地上七階建てのビルを見詰めると、そのまま重くも確かな足取りで歩み出した。

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