4-3.葉桜の陰に
田園調布の静かな高級住宅街は、朝日を浴びた並木や庭木の緑がやわらかく揺れていた。早朝とはいえ、すでに空気は温みを帯び、肌に触れると真夏らしい気配を運んでくる。それでも、昼の熱気に比べればまだ幾分マシだった。
静まり返った住宅街を歩いていくと、やがて二階建てのヨーロッパ風の落ち着いた佇まいが見えてきた。直人は伯父夫婦の家の門前に立ち、呼び鈴を押す。愛犬フランキーの吠え声が響き、ほどなくして門のロックが静かな音を立てて開いた。そのまま玄関先まで進んでいくと、手入れの行き届いた植え込みの匂いがほのかに漂ってくる。
「おはよう、直人くん」
橘十和子が柔らかな笑みを浮かべて直人を迎え入れる。料理研究家としても知られる彼女は、宗一郎より二歳年上で、きっちりとした身なりが朝の日差しに映えている。すでに外出の支度を終えているようで、右手には車のキーが握られていた。直人は軽く会釈を返す。
「おはようございます、十和子伯母さん。宗一郎伯父さんは?」
「あの人の身支度を待っていたら日が暮れちゃうわ。女の私よりもお洒落さんなんだから」
「もう支度はできたよ」
後ろで宗一郎の声がした。どうやらフランキーと名残惜しく挨拶しているらしい。「留守は任せたぞ」という宗一郎の声が聞こえてくる。フレンチブルドッグが果たして番犬の務めを果たせるかは分からないが、フランキーが殺されるくらいなら「何でも持っていけ!」と強盗相手に啖呵を切る宗一郎の姿が目に浮かぶ。二人の間に子どもがいない分、フランキーに惜しみない愛情を注いでいるのだ。
「あなた、直人君が助手席に座るの?」
「私は助手席には座りませんからねぇ」
宗一郎の気の抜けたような応えに、十和子はブツブツと独り言を呟きながら運転席に収まる。
「まったく、あなたってばお育ちがいいですこと。大学生のときエジプトを旅行した際、運転する叡治さんの横にちゃっかり座ったくせに。ほら直人君、乗ってちょうだい」
運転席から十和子に手招きされ、直人は何も聞かずにただ助手席に腰を下ろした。こんなやり取りは以前にもあった。渡辺と宗一郎と共に、末期癌だった母を連れて桜を見に行ったあの夜のことだ。
シートベルトを締めると、冷えた車内の空気が肌に触れ、肩の力が少し抜ける。遅れて宗一郎が乗り込むと、静かな朝の空気に包まれながら、車がゆっくりと動き出した。
「混雑する前に、お墓参りを済ませてしまいましょうね」
ハンドルを握る十和子が、ゆったりとした声で告げる。
「はい。それに、午前中のほうが暑さもいくらかましですから」
直人は頷くと、肩越しに振り向いた。後部座席には、スーツを静かに着こなした宗一郎が背筋を伸ばしている。
「そういえば、伯父さん。渡辺さんは今年、北海道に行きました」
「もう東京に帰って来てるみたいだよ。しかし、叡治君が実家に帰るのも何年ぶりだろうねぇ。母親の面倒は北海道にいる姉夫婦が見ているから」
渡辺の父親はすでに他界している。
「あら、叡治さんのお母さまは、もうお幾つになるのかしら?」
十和子がバックミラー越しに後部座席をちらりと見る。
「もうかなり高齢のはずだよ」
そう云うと、宗一郎はゆっくりと目を閉じた。
***
三人を乗せた車は渋滞もなく、静かに都内にある霊園へと到着した。
ドアを開けた瞬間、外気の温もりと、湿った土と葉の匂いが流れ込んでくる。直人は助手席から静かに降り、ゆっくりと息を吸った。青々と茂る葉桜が霊園全体を覆い、外界の喧騒を遠くに閉ざしている。
石畳の道を静かに歩くと、遠くで数人の高齢者が談笑しながら霊園の隅を掃除していた。まだ早い時間ゆえ、人影はまばらだ。
緑の天蓋の下を進むうちに、橘家の墓が視界に入った。五年前の夏至の日、急性の皮膚癌で若くしてこの世を去った神崎恵子が、今はこの静けさの中で眠っている。
──母さん、今年も来たよ──
直人は心の中でそう囁くと、用意した花を供え、線香をあげた。母の面影を胸に刻みながら手を合わせると、心地よい風が木々を揺らし始める。
宗一郎と十和子も静かに手を合わせた。しばらく言葉を交わさず、葉音だけが時を刻んでいく。
ふと宗一郎が深く息をついた。
「時が経つのは早いねぇ、恵子。……直人君のことは叡治君がしっかりと面倒を見ているよ」
隣に立つ十和子が、やわらかな笑みを浮かべて続ける。
「直人君は静かな子なのに、実はなかなかのやり手よ、恵子さん。CIA相手に堂々と交渉したらしいわ。芯が強くて、将来性もあるって。叡治さんも楽しみにしているみたい」
どうやら宗一郎と十和子も、直人が拘束された件を、渡辺から聞いているらしい。思わず、直人の口元に苦笑がこぼれた。
数か月前、直人は依頼調査中にアメリカの情報機関に拘束された。だが、局員のエリック・ホフマンとの交渉の末、無事に釈放された。その一部始終を渡辺に報告すると、平岡と幸恵は目を丸くしたと同時に、直人への期待をいっそう強めた。
「芯が強いのは恵子譲りかなぁ……でも、将来性は隆一君に似てるのかもね」
「父さんですか?」
意外だった。直人は合わせていた手を解くと、宗一郎の方を振り返る。
「隆一君は物静かだったけど、洞察力に優れた人だったよ」
「まあ! じゃあ、隆一さんは陰の実力者って感じの人だったのね」
十和子が感心したように云うと、宗一郎は目を細めて頷く。
「さすが十和子さん。ずいぶん図星を突くような表現だねぇ」
十和子は茶目っ気に「映画の観すぎかしら」と肩をすくめた。戯れるような男女の笑い声が、木々の間を抜ける風に乗ってゆっくりと遠ざかっていく。
「陰の実力者……」
少し引っ掛かりを覚えるような言葉に、直人は思わずぽつりと呟く。だが、その声は葉陰の奥へと吸い込まれるように消えていった。




