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メメント・モリ  作者: 星乃夜衣
【第三章】信頼の証明
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3-25.別れの言葉

  秘めたる門 開けずに帰る 若き日を

  悔ゆるか君は しのばずの池 〈投稿:Memento Mori〉


 朝刊の文芸欄に載った一首に、渡辺は視線を落とした。指でなぞるように和歌を追い、投稿者名として記された『Memento Mori』の文字に、ふと目を細める。それは、ピエールが差し出した名刺の裏にも書かれていた言葉だった。


「……Memento mori」


 死を忘れるな──いわば、死の門番(ゲートキーパー)からの招待状だろう。相変わらず、こんな古風な手段を使うところは変わっていない。


 ──それにしても、実に二十一年ぶりだな──


 渡辺は事務所の壁時計に目を遣る。まだ、皆が出社してくるまでには少し時間があった。

 走り書きを一枚、作業テーブルに残すと、新聞を持ちやすいように三つ折りにして脇に挟む。この和歌の意味を正確に解き明かせる者は、世界広しといえど、おそらく渡辺ただ一人。


「いや、もう一人いるな……」

 静かに呟くと、今はもう手の届かぬ場所にいる、かつての友人の顔を思い浮かべた。

 渡辺はふっと笑みを浮かべると、静かに扉を閉め、事務所を後にした。


***


 朝方、乾いた空気に染み込むような静かな雨が降っていたが、渡辺がビルを出たときには、すでに止んでいた。


 ──しのばずの池──

 和歌の投稿者が指定した場所は、すぐに察しがついた。


 朝の光はまだ薄く、公園内は人影もまばらだ。不忍池には、蓮が青々と大きな葉を広げ、わずかに濡れた石畳には雨の名残が微かに光っている。渡辺はその静けさの中を歩き、二十一年前の気配を探した。


 葉に落ちた水滴が白く瞬く蓮を前にし、若葉の緑が枝を覆った藤棚の下で、品の良い身なりをした老紳士がベンチに座っていた。

 かつてのプラチナブロンドの髪は、今やシルバーに変わっている。だが、年齢を重ねた姿にもかかわらず、刺すようなアイスブルーの瞳は少しも色褪せていない。


「Long time no see」

 渡辺の声に、老紳士はゆっくりと微笑んだ。

 かつて〝死の門番〟と呼ばれていたピエールの父。すでに七十代のはずだが、その存在感は驚くほど変わっていなかった。


「……まあ、君なら新聞の文字列を見落とすことはないと思っていたよ」

「まさか、あなたから連絡をしてくるとは……それにしても、いつ日本語を習得したのですか?」

 渡辺は老紳士の隣に腰を下ろす。藤棚の若葉が前をしのいでくれたようで、ベンチはさほど濡れていなかった。


「十年ほど前から日本語が流行り出してね。組織の連中は一斉に学び始めたよ」

「なるほど」

 短く笑い合ったあと、しばし沈黙が落ちた。


「あれから数年後、君たち以外にも門を叩いた者はいたが、更送処分となった。その者は米国人だったが、本国で八年の有罪判決を受けたようだ」

「八年……」


 渡辺は重く受け止めた。表向きは不法侵入だろうが、意図的に刑が加重されたのだろう。再発を防ぐための、明確なメッセージを含んでいる。不幸にも、その米国人は見せしめとして利用されたに違いない。


「あの日以来、一般人が組織に近づけば、即座に更送処分となる。外部の人間が中に入ったのは、リュウイチが最初で最後だ」

 そう告げると、老紳士はふっと息を吐いた。


「門番としての責務、ですか?」

 渡辺は眉間に皺を寄せ、隣に座る老紳士をじっと見据えた。


 ──二十一年前のあの日を境に、扉は完全に閉じられた──


 下手をすれば渡辺も、更送処分された米国人と同じ運命を辿ったはずだった。スイスから戻ると、身に覚えのない傷害罪で起訴され、それを棄却させるまで、半年以上にもわたる法廷闘争が続いた。だが、その粘り強い抗弁はやがて周囲の空気を変え、ついには判事が立ち上がり、裁判官席を静かに離れると、黒い法服を脱ぎ、渡辺の席まで歩み寄った。


 その一部始終に涙を見せた者もいた。荒木も、その一人だった。


「私は当時、君の法廷での健闘ぶりを非常に興味深く観察していた。実に、興味深かった。裁判官も最後には涙したそうだね。報告はスイスだけでなく、バチカンにも届いている」

「判事があの後、いくら罰金を払ったのかは知らないが……ああいうのは、もう二度と御免だ」

 吐き捨てるように、渡辺が云った。


「あれはオファーを蹴った君に対するお仕置きだが──」

 老紳士は皮肉な笑いを浮かべると、渡辺を日本に引き留める必要もあったことを明かした。宗一郎と恵子なら誤魔化せるかもしれないが、渡辺は隆一の遺体が別人のものだと見抜く恐れがあったという。


「簡単に云ってくれますね。こっちは悲惨だったんです。……離婚にも繋がった」

 渡辺は老紳士を睨みつけた。思い出すのも嫌な記憶だ。

「君のことだ。離婚した方が、相手の安全になると踏んだんだろう?」

 見透かすように、老紳士は渡辺の目の奥を覗き込んだ。渡辺は溜息をつくと、話題を変えた。


「……シチリアでの隠棲生活はいかがですか?」

「私が早めに引退したのは……時代が急激に変わりつつあるからだ。いずれ組織の存在意義も、問われることになるだろう」

「人工知能の台頭か……」

 渡辺が考え込むように呟くと、老紳士はふっと笑った。


「……ピエールが去年、君たちに近づいたようだね」

「気づいていたんですか」

 渡辺は、いたって冷静に答えた。

「いくら私がシチリアに隠棲したとはいえ、情報が入ってこないわけではない」


 そう云うと、老紳士は一度言葉を切り、目の前に広がる蓮の葉を静かに見詰めた。


「あの子からは滅多に連絡は来ないが、数か月前に久々の報せがあってね……母親をチューリッヒからストラスブールに移動させたいと。私は許可した。なぜなら、あの子は賢いからだ。これから何が起きるのか、理解している」


「それは……」

 渡辺は眉を顰めた。

 ──危険な匂いがする──


「既存のシステムが崩壊したらどうなるかね?」

 老紳士が試すように問いかける。

「……血の争い、か……」

 渡辺がぽつりと呟いた。老紳士は頷かなかったが、そのアイスブルーの瞳がすべてを物語っていた。


「これから組織内でも、手荒な動きが増えるだろう。世界中で生き残りをかけた奪い合いだ。リュウイチの息子も、巻き込まれるかもしれない──君にそれを警告しておきたかった」

「警告ですか……引退した人間が? それとも、()()()()()からの伝言ですか?」


 渡辺の皮肉めいた問いに、老紳士はわずかに笑った。

「純粋に、私からの警告だよ。我々は同じ時代を知る、もう数少ない生き残りだろう?」

 渡辺は黙って、その言葉を受け止めた。


 決して予想できないことではなかった。宗一郎が望むように、直人がこのまま何も知らずに生きていくことはもはや不可能だ。いつか必ず、その運命を知る日が来る。そして直人は、それをどう受け止めるのだろうか。


 深い沈黙のあと、老紳士がそっと立ち上がる。

「もう、君に会うことはないだろう」


 それが別れの言葉だった。

 老紳士の背中が木立の向こうに消えていく。渡辺は見送るだけで、言葉は返さなかった。


***


 渡辺事務所には、いつも通りの静けさが戻っていた。


「遅いわね、渡辺社長」

 幸恵がコーヒーを淹れながら、ちらりと壁の時計に目を遣る。

「走り書きのメモには、〝遅くなる〟の一言だけでしたね」


 最初に事務所に入った平岡が、作業テーブルの上に置かれたメモを拾い上げた。あとは、いくつか新聞が無造作に散らばっているだけだった。


 渡辺は毎朝、複数の新聞に目を通すのを習慣としている。探偵になる以前からの癖らしく、常に世の流れに敏感であろうとする姿勢の現れなのだろう。


 直人は作業テーブルの上に散らばった新聞に視線を落とすと、ふと古い記憶が蘇った。


 ──昔、渡辺さんが新聞の投稿欄に過剰な執着を見せて、薫さんの母親と夫婦喧嘩になった──


 浮気を疑われるほど熱心に、その文字の並びに何か意味を見出そうとしていたという。

 そんなことを思い出しながら、直人は新聞の一紙を手に取り、無意識に目を走らせた。そして一面の大きな見出しに、視線が止まる。


『都内のレンタカー内から男性2人の遺体 死因は窒息死か』


 直人は思わず息を呑み、紙面に食い入るように読む。


都内法人名義のレンタカーから2遺体

茨城空港駐車場で発見 首に圧痕、事件性も視野


25日午前、茨城県小美玉市にある茨城空港の臨時駐車場に放置されていた乗用車の車内から、男性2人の遺体が発見された。車両は今月中旬、都内の法人名義でレンタルされたもので、警察は遺体の身元確認を急ぐとともに、事件性も視野に捜査を進めている。遺体に目立った外傷はなかったが、いずれも首に圧痕が確認されたことから、警察は窒息死の可能性もあると見て司法解剖を行っている。


問題の車両は、都内に登記された法人名義でレンタカー業者から借りられていたが、この法人はすでに登記を抹消しており、現在は実体の確認が取れない状況にある。警察は法人が架空の会社であった可能性も視野に、車両の移動履歴や防犯カメラの映像を精査している。


「……これ、金田ともう一人の仲間では……」


 直人は愕然としながらも新聞を差し出した。平岡はその切れ長の目を細め、活字を追う。幸恵も無言でカップを持つ手を止めていた。記事には名前も詳細も出ていない。だが、場所と時期──そしてその〝事件性〟という記事の見出しが、直人の胸にひとつの可能性を呼び起こす。


「可能性はあるな」

 平岡の声は低く、しかし確信に近かった。

「……通報するの?」

 幸恵が新聞の活字の奥をじっと見詰めながら尋ねる。

「警察に任せます」

 直人は首を振った。その硬い表情に、平岡も幸恵も異を唱えなかった。


 ──これは、あの夜に交わされた信頼に関わることだ──


 あの夜、あの場所で、自分自身がエリック・ホフマンと取引したもの。

 それは、ただの言葉ではなく、信頼を証明するものだった。そしてその〝信頼〟は、きっとこれから先、長く尾を引くことになるだろう。


「まあ、これ以上深入りするのは得策じゃない。いずれ警察がたどり着くさ」

 平岡はそう云って、直人の肩をポンと軽く叩いた。


「そういえば、平岡さん。例の池袋のクリーニング店、売りに出るかもしれませんよ。先週、店主と言葉を交わした時に、そんな話を耳にしました」


 直人は新聞を折り畳みながら、日を改めて挨拶に行った時のことを思い出した。あの老人は金田の仲間ではなく、単にお金で場所を提供していただけだった。後継者もおらず、このまま店を畳むか、それとも売るかと話を切り出された。


「マジ? そっか……親父に伝えてみるよ」

「平岡君のお父さんっていつ引退するの?」


 幸恵が愉しそうに笑いながら、コーヒーカップを作業テーブルの上に差し出す。湯気が静かに立ちのぼり、ほんのりとした香りが室内に広がった。


「あの人は死ぬまで働くタイプですよ。引退って言葉、知らないんじゃないかな」

「渡辺社長みたいですね」

 直人も笑う。渡辺が引退する姿はまるで想像できなかった。 

「えー、じゃあ私も死ぬまで働くってこと?」

 そんな幸恵のひと言に、事務所は明るい笑いに包まれた。


 窓の外では、雨がすでに上がり、濡れた街路樹が朝の光を鈍く反射している。空はどこかぼんやりとして、けれど確かに明るい。


 世界は動き続ける。


 その陰で、いくつかの真実は、いまだ陽の目を見ることなく、沈んだままかもしれない。けれど確かなのは、渡辺事務所の静かな日常が、新たな依頼とともに静かに始まろうとしているということだった。



(了)

回想編「死の門」に続きます。(全4話)

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