彼女と咲かす薄紅色の朝
大学の入学式当日、僕は早朝に彼女の彩花と近所の砂浜に並んで座っている。
二人ともほとんど部屋着のままで、肌寒いから高校のジャージを重ねて着ている。
時刻は六時半、すでに太陽は昇っているが、曇り空のせいで海は濁った色をしている。
なんとなく、食欲の失せる色だなと思った。
炒めてしんなりした茄子の皮みたいで、気分が沈む。
ここに来る途中、コンビニで朝食用のスティックパンを買ってレジ袋に入れていたが、手首に下げていたそれが急に鉛のように重くなった。
分厚い雲が覆う空を眺めている僕の横で、彩花は大きなあくびをしている。
無理もない。朝五時半に僕の電話で叩き起こされて、何の前触れもなく海に行こうだなんて言われたのだから。
よく何の文句も言わず来てくれたものだと思う。
……まあ、彼女にはいつも迷惑をかけられているから、その仕返しという意図がないわけでもないが。
「……で、唐突に砂浜になんか呼び出して、何の用かね」
喉を鳴らすような低い声で、彩花が何処ともなしに呟く。
僕は彼女を横目で見ながら囁いた。
「桜のないところに来たかったんだ」
桜は潮害に弱い種類が多い。だから、この砂浜の周辺には桜の木が一本も植えられていない。
どこへ行っても薄紅色が主張する季節から隔絶された、静かな場所だ。
数メートル先で弱い波が寄せては引いていく音が、とても心地いい。
「桜のないところ、ね……。これまた一体どうしてそんなこと思ったんだい」
彩花が力を抜いて僕の左肩に寄りかかる。
僕は普段口数が少ないから、こうして直接触れていないと伝わらないものがあるのかもしれない。
「卒業式の日にさ、クラスのイケてる女子たちがみんなお姫様みたいな格好してたでしょ」
「ああ、してたね」
「ちっちゃなティアラ頭に載っけて、ラメかなんかで顔もキラキラさせて。卒業式が終わったら後輩たちから風船とかいっぱい渡されてさ」
「私たちとは違ってね」
「そう。——それで、そんな彼女たちを遠巻きにして眺めながら僕は思ったんだ。彼女たちは桜みたいだって」
冷たい風が僕の頬を撫でた。
髪の長い彩花の表情は分からない。
僕は独り言を漏らすように続けた。
「彼女たちは、もう咲ききったんだ。あの日を境に、散っていくんだよ。そして、二度とは元に戻らない。僕はそれが悲しくて、忘れられなくて——今日までずっと、寝る前は卒業式の光景を思い出していた」
僕がモノローグのような語りを終えると、彩花は「ふーん」とだけ言って、僕の肩にわざと体重をかけてきた。
「何言ってんのかさっぱり分かんないけど、こんな可愛い彼女がいるのに、誰でもないJKの影ばかり追いかけてるのはイケナイことだと思いまーす」
唇を尖らせて、冗談めかした声音で彼女が抗議する。
僕は意味もなくただ「ごめん」と謝罪した。
「……要するに、キミは綺麗なものが綺麗なまま残らないのが嫌なわけだ」
「なんだ、分かってるじゃないか」
「真面目に言ってんだけどー」
より強く体重をかけられて、重心を崩した僕は右手を地面に着いた。
冷たい砂のサラサラとした感触が、少しだけ僕を冷静にさせた。
「……彩花はさ、怖くない? このままティーンエイジャーを終えて大人になっていくことが」
彩花は少しだけ唸って考えた。
彼女の声の振動が、肌と布を伝って僕の身体に響いている。
その音は、とても軽い。
「怖くは……ないかな」
「どうして」
「どうして、ってー……逆に、キミは何をどうしてそんなに恐れているんだい」
彼女にそう問われて、僕は無意識に眉間の皺を寄せていた。
昔のことを思い出していたからだ。
僕は小学生の頃、猫を飼っていた。一般的なメスの三毛猫だ。
僕はその猫のことを家族の誰よりも溺愛していた。
時には友達付き合いも忘れて猫と遊んでいることもあった。
……だけど、その猫は僕が中学に上がる前に病気で死んだ。
朝起きて、父親に猫の死を告げられたとき、僕は呼吸の仕方を忘れて、目の前が真っ暗になった。
それから二週間は部屋から出ることができなかった。
何とか学校に行けるようになっても、僕を慰めてくれる友達はいなくて、最初の数日だけ物珍しそうに見られただけだった。
それから、二ヶ月経った秋の日、僕は保護猫を預かることになった。
元々飼っていた猫とそっくりな、メスの三毛猫だ。
僕は期待した。きっとこの子が僕のことを救ってるくれるのだろうと。この子はあの子が僕のために遣わしてくれた天使なのだと。
でも、ダメだった。
結局僕は一時的に預かるだけで、彼女を飼い続ける選択肢は選ばなかった。
どうしたって、替えは利かなかったのだ。
それから僕は終わりを意識するようになった。
朝起きてすぐ、何かが終わる予感がして、布団を被り、五分経つとのろのろと起き上がる。そんな日々をこれまで繰り返してきた。
「ねー聞いてるー?」
「聞いてるよ」
軽薄な彩花の態度が、僕を少しだけ苛立たせた。
彼女だって、例外ではないのに。
彼女もまた、終わる存在なのに。
「……キミはさ、不安なんだ。私がどっか行っちゃわないかって」
「…………」
「行かないから安心しなよ。家族も友達も先生もみーんな私たちの関係を認めてる。私たちきっと五年後くらいに結婚すると思うんだあ」
彩花が僕の腰に両腕を回してぎゅっと抱きついてきた。言葉を行動で示すみたいに。
でも、僕はそれが空虚なものに思えてならなかった。
他人が認めているから何だ。結婚するから何だ。
諸行無常のこの世界で、そんなものは何の保証にもならない。
そんな風に諦観する僕を見かねてか、彼女は少し距離を取って、真剣な眼差しで僕の濁った双眸を見定めた。
「キミは……私に造花にでもなってほしいのかな」
僕はその肌を突き刺すような冷たい問いかけに、一瞬たじろいだ。
造花は永遠に変わらない。
美しいものが美しいまま、この世界に存在し続ける。
僕にとっての理想そのものだ。
あの日のお姫様はお姫様のまま、大好きだった猫は大好きだった猫のまま、消えることはない。
だから、僕はあまり悩まずに答えることができた。
「そうだね。その通りだ」
僕も彼女を見つめ返した。
濁ったままの瞳で、光の宿った彼女の視線を受け止めた。
すると、彼女は間髪入れずに微笑みながら言った。
「そっか。私は嫌だよ」
その明確な拒絶は、猫の死を知らされたときみたいに、僕の心臓を握りつぶした。
「なぜ?」
「なぜ? さあ? 嫌だから嫌なだけだけど」
何だそれは。理由になっていない。
「ちゃんと考えてものを言えよ」
「えー、面倒だなー。キミこそ考えすぎなんじゃない?」
僕は完全に苛立っていた。
「彩花は死ぬのが怖くないのか!」
「随分と話が飛躍したねー。まるで私が不治の病に侵されているみたいじゃないか。まあ、たとえそうだとしても、怖くないけど」
私は健康ですと言わんばかりに彼女は細い腕で力瘤を作ってみせた。
違う。違う、そういうことじゃない。
僕はただ——。
僕は——。
僕が頭を抱えると、大きな波飛沫が上がって、一瞬世界の全てを飲み込んだような気がした。
「……ねえ、顔を上げて」
「……嫌だ」
いつのまにか彩花は立ち上がって、僕を見下ろしていた。
「その弱虫な顔を私に見せて。笑ってあげるから」
「…………」
僕は今この世で一番惨めで情けない生き物のような気がした。
いや、生きる気力がないのなら、生き物でさえないのかもしれない。
僕はただの物体だ。
美しくもない。造花にもなれない、ただの置き物だ。
「はあ……仕方ないなあ」
彩花はため息を吐くと、僕の腕を持ち上げて引っ張った。
「何するんだよ」
「何って、海に入るんだよ」
「何で」
「きっと楽しいからさ」
「はあ?」
僕は抵抗する暇もなく、彼女に無理やり引きずられて、波打ち際まで来ていた。
その細い腕のどこからそんな馬鹿力が湧いてくるのか。
湿っている地面が気持ち悪くて、僕は立ち上がった。
「酷い顔」
「うるさいな」
僕は泣いていた。
みっともなく、瞼を腫らして。
「えい!」
彩花が海水を手のひらで掬って、僕に投げつける。
口内に侵入した塩辛さが、まだ朝食を摂っていなかったことを思い出させた。
とはいえ、手首に下げたレジ袋は変わらず重いままだ。
「何すんだよ」
「えへへ。彼女っぽいでしょ」
彩花が再び僕に海水を浴びせようとする。
それを避けようとして、僕は千鳥足のようになった。
足元がぬかるんでいて、動きづらい。
僕は意地になって、やり返そうとした。
最近気温が暖かくなってきてはいるが、それでも海水は驚くほどに冷えている。彼女に向かってそんなものを浴びせてやろうとすることを、一瞬躊躇ってしまうほどに。
しかし、そこで隙を見せてしまったのがよくなかった。
「そりゃ!」
「うわ!」
彼女の渾身の一撃は僕の顔面にクリティカルヒットした。
「あっはははははは! これで少しは頭が冷えたんじゃない? さっきより多少はマシな顔つきになってるよ」
その嘲笑の煩わしさは、僕を激昂させるには十分なものだった。
「んだとこのおおお!」
僕は彼女を海水に沈める勢いで思い切り掴みかかった。
冷静さを欠いていたから、避けられたときのことは考えていなくて、正直彼女に触れる直前で後悔していた。
しかし、彼女は僕の突進を避けようとはしなかった。
むしろ、子どもを迎え入れる母親のように、僕を抱きしめて、そのまま背中から海水に向かって倒れていった。
僕は反射的に彼女を守ろうとして、宙で身体を捻って彼女の下敷きになった。
再び大きな水飛沫が上がる。
「つっっっっめた!」
指先で触れるだけでも凍えそうだったのに、全身海水に浸かった僕は生まれたての子鹿のように震えていた。
対して彩花は、ただひたすらに、笑い続けていた。
何なんだこいつは、本当に。
高校二年の四月、隣の席になって、やたらと突っかかってきて、僕のことをオモチャか何かだと思っているのではないかと思っていたら、三ヶ月後の夏祭りで僕のことを好きだと言ってきた。情熱的に迫ってきた。断るなんて考えがよぎる前に、唇を奪われた。その日の夜には危うく身体の関係を持つところだった。
いつもいつも、僕が考えるよりも先に僕の考えの及ばないことを仕掛けてくる。
僕の神経を逆撫でするようなことばかりしてくる。
——なのに、僕は彼女のことを愛している。
「ね? 楽しいでしょ」
「楽しいことなんてあるもんか」
「嘘だ。キミ今笑ってるよ」
「は?」
僕は濡れた手で思わず自分の口元を触って確かめた。
口角は上がっていなかった。
「おい」
「あっはははは。本当に簡単だなーキミは」
「くそ……」
砂浜に上がってへたり込む僕は、もう寒さなど気にしていなかった。
全てがどうでもよくなった気がした。
ふと見上げた空の雲間に光が差していた。
彩花が僕の隣に腰掛ける。
「……今日と明日に境界なんて作らないでよ」
二人でしばらく水平線を眺めていたら、至極当然のことのように、彼女はそう言った。
「今の私たちは幸せだよ。もしこの時間が終わったとしても、その悲しみはそれを上書きしたりなんかしない。同じ地続きの世界で、幸せだった時間は存在し続けるんだ」
彼女がまた僕の肩に寄りかかる。
水を吸ったジャージは重たくて、冷たくて。それでも仄かに温もりを感じられた。
「だから、とりえあず今を楽しもうよ。幸せになるはずの時間まで悲しくなってたらもったいないよ」
気づけば僕の頬は濡れていた。
塩水が顔を伝って、口内に侵入する。
その塩辛さは、やはり僕に朝食のことを思い出させるのだった。
もうびしょ濡れで、潰れて、食べられないけど。
それからしばらく、僕と彩花はお互いの存在を確かめ合うように支え合った。
「…………そろそろ帰らないとな。家帰ったらシャワー浴びて、スーツに着替えないと」
僕らは若干の名残惜しさを感じつつも、帰路に就いた。
朝日はすでに高く昇っている。
新しい日が始まろうとしている。
何かが終わりを告げて、新しい何かに入れ替わろうとしている。
僕はやはり、それがどうしようもなく恐ろしい。
だけど、隣を歩く彩花を見て、こうも思うのだ。
僕はきっと、この時間のことを忘れない。
たとえ、過ぎ去って遠くに行ってしまったとしても、この時間はなくならない。
水平線とその向こう側に境界はない。
そんなことを考えていると、僕は殊更彼女のことを愛おしく感じて、その手をぎゅっと握りしめるのだった。
「何だい急に。彼氏っぽいことなんかして」
「ぽいじゃなくて彼氏だからな」
「変なの」
「お互い様にな」
僕らは理由もなくただ声を出して笑った。
できるだけ強く、懸命に。
存在証明をするかのように。
未来の自分に向かって。
「幸せだぞ」と。
精一杯、祈るように、ただひたすらに、笑い合うのだった。