駅弁なき世界
駅までは5分もかからなかった。ピンカーブリッジ駅は立派な木造駅舎で、中に入ると商業施設が併設されていた。
私の組んだ旅程では、13時ごろリドルワースに到着する。リドルワースでの接続は17分。
リドルワースで駅弁を買ってもいいが、まずはピンカーブリッジの駅弁を見てみよう。そう思って駅員に声をかける。
「すみません」
「はい、いかがされましたか?」
駅員は爽やかな笑顔で尋ねる。だから私は安心して尋ねることができた。
「駅弁はどこで売ってますか?」
「駅弁? 駅弁とは何でしょう?」
『駅弁』という言葉が通じなかったことに私は一瞬困惑した。が、私は転生してきたことを思い出す。そうだ、この世界には『駅弁』という言葉が存在しないのかもしれない。まさか駅弁自体がないということはあるまい。私は訊き方を変えることにした。
「あー、ランチボックスはどこで売ってますか?」
「ランチボックスですね。それでしたらあちらのコレクタードの中で売ってますよ」
そう答えて駅員は商業施設を指す。待合室や改札に近いところで売らないのかという違和感を覚えつつ、私はとりあえず行ってみることにした。
「分かりました。ありがとうございます」
「良い旅を」
駅員は笑顔で頭を下げた。
商業施設の中には確かに弁当屋はあった。しかしそこに置かれていたのは全てサンドウィッチーーこの世界で「ノベラーロ」と呼ばれているものだった。「ノベラーロ」がベーグルサンドだけでなくサンドウィッチ全般を指すということをこの店で初めて知った。ともあれ、地域の名物を彩りとバランスよく詰めた「駅弁」は置いていなかった。そのことを残念に思いつつも、特に食指の動くものもなかったので、昼食はリドルワースで調達することにした。
この判断が後に地獄を生むことになるとはこの時の私は思いもしなかった。
* * *
窓口で連絡乗車券を買って改札を抜け、跨線橋を渡り、列車の待つ3番ホームへと向かう。機関車は鉄道博物館で見るような、それも欧米から輸入された初期の機関車のような佇まいだった。煙突は太く、ボイラーは細く、大きな排障器をもち、後ろには小さな炭水車を繋いでいる。全体に塗られたオレンジはグロース鉄道のコーポレートカラーだろうか。その後ろにはぶどう色の木造客車が長く連なり、さらに荷物車や貨車も繋いでいる。混合列車ーー本で読んだことはあったが、実際に乗るのは初めてだ。高揚が抑えきれないでいた。
車内は4人掛けのボックスシートが左右に連なっていた。素材は木製で、腰掛にはモケットが張られているが背もたれにはない。夏休み中の普通列車ということもあって車内は若者で混み合っていた。それでも幸運なことに空いてる座席を見つけることができた。ただボックスが空いているわけではない。そこに座っていたのは、麦わら帽にネイビーのワンピース姿の女性。胸は大きかった。そんな女性と仲良くなりたいと思ってしまうのは男性の性だろう。そんな下心を隠して、私はあくまでも紳士的に声をかけた。
「失礼、こちら、空いてますか?」
「ええ、どうぞ」
彼女は顔を上げ、微笑んで席を促してくれた。私は、「ありがとうございます」と答えて席に着いた。
ちょうどその時、大きく汽笛が鳴った。直後客車が引っ張られる衝撃。この世界に来て初めての旅が始まった。
客車の内装も車窓も当然私にとっては初めてのものである。しかし、私はそれ以上に目の前の女性に目を奪われていた。胸が大きいだけでなく、脚はすらりと長く、唇は潤い、目は吊り目がちで、大人の女性の魅力というものが感じられた。まじまじと彼女に見入っていると、彼女と目が合った。
「ねえ、用もないのにじっと淑女を見るというのは紳士の行いではなくってよ?」
当然の反応だ。私は慌てて謝った。
「すみません! 美人だなぁと思ってつい……。あ、私ウィナー=クリアウォーターといいます。帝立ピンカーブリッジ大学の学生です」
「リーザ=ハーバーマスよ。そうねぇ、そんなに優秀な学生さんなら、一つ質問をしましょうか。もし私が満足できる答えを出せたら、さっきの非礼は許してあげる」
予想外の展開に困惑しつつも、私は冷静であるように努めた。そして私はじっとリーザさんの顔を見る。彼女の吊り目が細くなるのを見ると、試されている感じがしてゾクゾクするが、それを理由に彼女の顔から目を背けるのはそれこそ非礼だと感じた。
「いい顔ね。では質問。今のグロース鉄道に欠けているもの、それは何?」
私は絶望した。私には転生以前のウィナーの記憶がない。つまり、グロース鉄道自体初めて乗るようなものなのだ。しかしそのことを嘆いても仕方がない。経験のないなりに、私は一つの答えを捻り出した。
「駅弁が欠けています」
「駅弁? それは何?」
「ランチボックスの一種です。地域の名物を彩りよく栄養バランスよく詰め込んでいるのが特徴です」
「ほう」
リーザさんは身を乗り出す。興味を持ってくれたようで安心した。私は自信を持って続ける。
「駅弁があることによって旅の楽しみが増えます。また、オリジナリティの高い美味しい駅弁を売り出すことによって、それが旅の目的にもなり得ます」
「百点満点中百二十点よウィナー! さすがは帝立ピンカーブリッジ大学の学生! あなたはその駅弁というものを自分で広める気はあるのかしら?」
思ってもないことだった。私は考えてみる。駅弁のない世界で駅弁を広めるというのは多大な困難を伴うだろう。それにこの世界ではまだ私は学生なのだ。しかしである。どの世界にも必ずパイオニアという者がいて、それが学生であることも近年では珍しくない。それにこれはブルーオーシャン、またとないビジネスチャンスだ。なにより、私は駅弁を愛している。答えは自ずと出た。
「はい、広めてみせます」
「素晴らしい! ウィナー、まずは人を集めなさい。どんな人が集まるかによってどんな企業になるかが決まるわ。魅力的な人が集まったら、私のところへいらっしゃい。我がグロース鉄道は学生の挑戦をどこよりも応援するわ」
そう言ってリーザさんは名刺を差し出す。それを受け取り眺めてみて驚いた。
「営業部長!?」
思わず声が出た。彼女はこの若さでグロース鉄道の営業部長だったのだ。
「そう。グロース鉄道オーナーヴィルヘルム=ハーバーマスの一人娘にして営業部長リーザ=ハーバーマス。それが私」
彼女はすまして答える。なにやらとんでもない人とお知り合いになってしまったぞと思った。列車は平原地帯をひた走る。駅弁なき世界で駅弁を広める旅はこうして始まった。この旅路がどこへ至るのか、まだ誰にも分からない。