目覚め
力強い汽笛に私は目を覚ます。目に入ったのは初めて見る天井。それも近い。上半身を起こすと頭がつきそうだった。サイドボードから身を乗り出すと床まで高さがあった。しかもベッドの下に閉じたカーテンがあった。寝ていたのが二段ベッドだったと気付くのにそう時間はかからなかった。
私は早速梯子を下りる。私はこの世界について知らなさすぎる。ここがどこなのか、今がいつなのかさえ分からない。まずは手がかりを探さなければ。
まず五感を駆使して環境を探る。暑いがじめじめしているわけではない。かといって乾燥しているわけでもない。熱帯や乾燥帯ではなく温帯か冷帯の夏だろう。
次に部屋の中を見渡すと、ベッドの対面に時計が掛けられていた。時刻は5時2分。ベッドのヘッド側にはカーテンの閉じられた窓が一つ。それに向かって左右にデスクと本棚が二つずつ。デスクの上にはそれぞれ大きな封筒が置かれていた。右のデスクの封筒の宛先はアンリ=ルフェーヴル。これを開くのは悪い。左のデスクの封筒の宛先はウィナー=クリアウォーター。私の名前だ。差出人は、帝立ピンカーブリッジ大学文学部教務。帝立ということはここは帝国か? 封筒はすでに開いていた。私は早速中身を確認する。一枚目の紙にはこうあった。
ウィナー=クリアウォーター殿。ザメンホフ暦54年度前期の成績表を送付します。
ということは、私は今学生か? 転生すると同時に若返ったのか? 混乱しそうな頭を必死に落ち着ける。冷静になれ、私は既に異世界に転生しているんだ。そんなことから思えば、若返ったことぐらいなんだ。そうだ、よかった探しをしよう。生前より体力はある。そして学生の夏休みは自由だ。しかし先立つものは? 私はデスクの側に置かれた鞄を手に取り、財布を取り出した。
開けてみると全く知らない貨幣があった。紙幣は500ウンス札が1枚、100ウンス札が2枚、50ウンス札が4枚、10ウンス札が3枚、5ウンス札が5枚、1ウンス札が13枚。それから硬貨が50スぺ硬貨が2枚、10スぺ硬貨が4枚、5スぺ硬貨が1枚、1スぺ硬貨が4枚。合わせて968ウンス149スペ。多分、学生にしては持ってる方だとは思うが、1ウンスや1スぺがどれだけの価値なのかは使ってみないと分からない。
財布の中身を見て少し冷静になった。その上でもう一度部屋を見回す。2対のデスクと本棚、二段ベッド、大学からの封筒……私は一つの結論に至った。ここは帝立ピンカーブリッジ大学の学生寮だ。アンリ=ルフェーヴルは私の学友でありルームメイトなのだろう。
まだ手掛かりはないか。私は送られてきた成績表を手に取る。前期だけでも私は歴史学、社会学、経済学、政治学、地理学等様々な分野の授業を受講していたようだ。しかも全ての授業でB+以上と、我ながらかなり優秀な学生だったらしい。その中で最も参考になりそうなものはどれだろうか。私はある授業に目星をつけた。帝国地誌。おそらくこの帝国の諸事象を総合的に考察するような講義だろう。レポート課題は提出してしまって手元にないだろうが、草稿は残ってないだろうか。
デスクの引き出しを開けるとそれはすぐに見つかった。紙が何枚も綴じられた分厚いファイル。背表紙には『レポート草稿』。おまけに講義ごとにインデックスで整理されている。私は自分のまめな性格に感謝した。おかげでお目当てのものはすぐに見つかった『帝国地誌最終レポートアウトライン』。私は早速目を通す。
我がラーザリ帝国は、諸外国と比較しても鉄道が顕著に発展した国である。その理由について自然的環境と人文的環境の両方に着目して考察する。
まず自然的環境に着目する。ラーザリ帝国の自然的環境で鉄道の発展を促進した要素となるものは次の二つである。第一に国土の広範さが挙げられる。帝国の国土は北は北緯45度の冷帯から、南は北緯20度の熱帯に亘り、ボーネガ大陸上に位置している。広範な大陸国家において国内の移動は、陸上において長距離速達大量輸送を得意とする鉄道が適している。第二に起伏の少なさが挙げられる。鉄道は勾配や曲線を苦手とする。国内に起伏が少なければ鉄道が苦手とする勾配や曲線を少なくすることができるため、山岳国家と比較して自由に鉄道を敷設することができる。
次に人文的環境に着目する。ラーザリ帝国の人文的環境で鉄道の発展を促進した要素となるものは次の二つである。第一にディストリビュータ計画と呼ばれる首都機能分散計画が挙げられる。我がラーザリ帝国の政治的中心地である政都はグローラ王領リドルワースだが、この他にも宗教的中心地である聖都はサンクティアナ大聖導主領チアリーベリー、経済的中心地である商都はエヴォルイギウス大公領アンブルドック、研究・教育の中心地である学都はここプログレシンタ公領ピンカーブリッジ、軍事的中心地である軍都はロジャレコ騎士団領ドリブルブルクとなっている。このように我が国は大規模な都市が計画的に分散されているため、陸上において長距離速達大量輸送を得意とする鉄道の発展に適している。第二にはリベレコ政策と呼ばれる自由化政策が挙げられる。リベレコ政策によって、これまで認められてきた身体的自由権に加え、経済的自由権も臣民に認められるようになった。中でも鉄道の発展を促進したと考えられるのは、財産権の保障、職業選択の自由、往来の自由の三つの権利である。財産権の保障によって、臣民は安心して資産を増やすことができるようになった。職業選択の自由が与えられたことによって、臣民は鉄道事業者を就労先として選ぶことができるようになった。往来の自由が与えられたことによって、臣民は鉄道を利用し、移動することができるようになった。
以上のことから我がラーザリ帝国は自然的環境から見ても人文的環境から見ても鉄道の発展に適していると言える。今後も帝国の鉄道は発展を続け、移動はより便利になることだろう。
さすが優秀な学生が書いた地誌学のレポートのアウトライン。この地について一発でよく分かった。
ここで情報を整理してみよう。今はザメンホフ暦54年――これは生前の世界から見ると近代という時代区分が近しいだろう。ここはラーザリ帝国プログレシンタ公領ピンカーブリッジ。本位貨幣はウンス、補助貨幣はスぺ。臣民の権利として移動の自由や経済活動の自由等が保証されている。ここまで分かれば十分だ。あとは地図と時刻表があればいい。
「おはよ。休みだというのに相変わらず早いな」
唐突に背中から声がかかる。振り向くと、パジャマ姿の若い男性が立っていた。高身長で鼻も高く、ハンサムといっていい。おまけに頭の良さがオーラに出ていた。二段ベッドの下の段のカーテンはいつの間にか開いている。アンリ=ルフェーヴルは彼だった。