花になった人
とあるゼネコンのシステム関連会社でエンジニアをしているNさんの話。
Nさんと私は、某製鉄所のシステム部門で勤務していた頃から十年来の付き合いだ。その製鉄所で、奇しくも怪異に居合わせたのを機に、今でも時折、酒の席でその手の話の情報交換をしている。昨年の暮れ、3年ぶりに酒席を共にした際、こんな体験を語ってくれた。
Nさんの職場で、ある噂が流れだしたのは、昨年のGW明けだった。執務室から休憩スペースの間の、人2人が並んでやっと歩ける程の狭い廊下で、考えごとをしながら歩いているとそれは「出る」というのだ。出るのは幽霊や妖怪のような類ではなく、『レンゲの花』だという。
Nさん自身が体験したのは八月のこと。深夜残業をしていたある日、休憩スペースに向かう廊下を歩いていると、壁際にひっそりと一輪の花が咲いている。「あれ?なんでこんなところに?」と不思議に思って顔を近づけようとしたところ、額を壁に思い切り打ちつけてしまった。痛みに我に返って足元を見ると、花は影も形も見当たらない。こんな体験をする人が相次いだという。
この花を見たとい人が増えるにつれて、花は『黒田さん』と呼ばれるようになった。どうやら数年前に、黒田さんというベテランエンジニアがいた、というのが理由だという。黒田さんは、シニアになってからも有識者として第一線で活躍していた。残念ながら、登山で滑落したときに負ったケガがきっかけで亡くなったという。
その黒田さんが携わった旧システムの入れ替えの佳境が丁度、昨年だった。旧システムのトップ画面には、文字を並べて作った花が描かれており、黒田さんが新人の頃に作ったものだという。そして、黒田さんはそんな余技を誇っていたという。
『黒田さん』は、いつしかなじみ深いものになった。「また黒田さんにやられた~」という声が、終電を逃した徹夜組の間でよく聞かれたものだ、とNさんは懐かしむ。
夏から秋にかけて次第に噂は減っていき、十月を最後に『黒田さん』を見た人はいない。「寂しいね」という声が聞かれると共に、ある人はNさんにこう言ったという。「そういえば、炎上していた頃だよね。黒田さんが出たのって。もしかしたら、あんまり働き過ぎるなよって忠告してくれたのかもな」
システムは朽ちても、携わった人の想いは、何らかの形でこの世に残る。エンジニアとして、これほど名誉なことはない、とNさんと私は一つの真理に到達した。