第8章
● 熊野 慈澄庵
熊野の山中奥深い場所。
闇の中に激しく燃え上がる炎が四人の白装束の男達を揺らめく光で照らしていた。
庵の前で慈澄は、弟子と共に焚き火を囲み、不眠不休で護摩を投げ入れながら経を唱えていた。
ふと、その声が途切れた。
弟子達も唱えるのを止めて慈澄を見た。
慈澄が崩れる様に倒れた。
「お師僧様!」
「お師僧様!」
弟子達が駆け寄った。
「さすがに、ここまで、だな……」
「お師僧様!」
本当は、弟子達は、降伏法という霊的なものを封じる儀式に入る前に慈澄を止めた。
だが、慈澄は病と歳老いた身体から自分の寿命が残り少ないことも理解していた。
だから、止めることはなかった。
「後は、お前達に任せる……」
弟子に抱き抱えられた慈澄が声を絞り出した。
「何をおっしゃいますか!お師僧様!」
慈澄の目から光が失われ、弟子の服を掴んでいた手の力が抜けて落ちた。
慈澄はそこで息絶えた。
「お師僧様ー!!」
3人の弟子の泣き叫ぶ声は、夜陰に染まる熊野の山中に木霊し続けた。
● 東武蔵大学園山研究室
慈澄が儀式を始めて6日目の朝、永凛寺の住職から教授に連絡が入った。
「……そうですか。わかりました」
教授は、頭を下げて電話を切った。
「お父さん?」
季世恵が父の雰囲気に声を掛けた。
「結界のお札ができた」
教授は少し虚ろな表情で言った。
「え?良かったじゃない」
季世恵は雰囲気と反対の台詞に戸惑った。
「だが、そのせいで慈澄さんが亡くなった」
「え……」
季世恵は言葉に詰まった。
教授は、窓辺に行くと、青く晴れ渡った外を見つめた。
そして、そっと手を合わせた。
季世恵も、黙って、父と共に手を合わせた。
まもなくやって来た遥香と忍にもその事を伝えた。
「そんな……」
二人も、それ以上何も言えなかった。
● 永凛寺
「こちらが、慈澄殿のお弟子さん方です」
その日の夜、永凛寺の本堂で、上京して来た3人の修験僧を住職が遥香達と赤井、三田村に紹介した。
「慈空です」
「慈延です」
「慈海です」
歳が上だと思われる方から自己紹介をした。
一番上の慈空でも50才くらいと思われた。
だが、3人とも、厳しい修行を積んでいるのは、容易に想像ができる容貌と身体つきだった。
「この度は慈澄さんのこと、何と言ったらよいのか……」
教授が戸惑いながら言った。
「いえ、お師僧様も覚悟の上でしたので」
慈空が言った。
「そうですか……。それで、結界のお札は、間に合ったということですか?」
命を懸けた結界のこと、それは蔑ろにできる事ではなかった。
遥香達も、赤井達も慈空を見た。
「大丈夫です。これがダメなら、あれを止められる者がいないと言っていいです」
慈空は真剣な眼差しで言った。
「わかりました」
教授も頷いた。
「さらに、今回は滅する事まで考えたお札も用意しました」
「え!?」
「本当ですか!?」
遥香も他の者も身を乗り出した。
「はい。これまでは場所の中で動きを封じるまででしたが、お師僧様もさらに修行を積んでおられます。うつりを見つけさえすれば、何とかその存在を滅することができるかもしれません」
「うつりを見つければ?」
遥香がその言葉を繰り返した。
「はい、さすがに、うつり自体にお札を貼り付けないと無理ですが……」
「それは、可能ですか?」
教授が戸惑いながら聞いた。
「近くにいるならお札が教えてくれますので、私達で、何とかします」
慈空が心を決めた表情で答えた。
でも、彼等もそう言うしかなかったのを、遥香達は分かった。
結界のお札は何とかなった。
さらに、うつりを退治するお札まで。
だが、問題は、結界を張る場所だった。
以前は、外枠から少しずつ狭めて、その結果が世田谷区内の範囲だった。
それ以上狭くするにも、設置が寺とか神社とか、そういう神聖な場所に限られるので、一つ寺社ををずらすだけで、うつりをその範囲外に逃がす可能性があった。
念を込める以上、念が分散し効力が弱くなるため何枚も作れない。
今回も用意できたのは4枚。
鶴円寺と道空寺の2枚が残っているが、世田谷区を出たうつりが遠く離れていけば、やはり囲むには新たにこの4枚が必要となる。
うつりを把握し、効力の強い範囲で結界を張るのは、至難の技かもしれない。
そして、最大の問題が、うつりが、今、どこにいるのか……だった。
犠牲は出て欲しくはない。
だが、その犠牲が出ないと、その存在は分からないのだ。
犠牲が出たら、すぐにその近辺を囲む必要があった。
『他に何か手はないのか……』
ここに集まる皆の気持ちではあったが、口には出せなかった。
慈空達は、うつりの移動方向に一番近い、この永凛寺に留まり、それに備えることとなった。
本堂を出たところで、赤井が遥香を呼び止めた。
「どうしたんですか?」
三田村が赤井に言った。
「お前は先に行ってろ」
「あ、一人で遥香ちゃんと話すなんてずるいですよ」
三田村がそう言うと、赤井が冗談の欠けらもない表情で彼を見つめた。
「……はいはい」
彼は諦めて外に歩いて行った。
「どうしたんですか?」
遥香はそのやり取りと赤井の表情を見てそう言った。
「渕上さん」
「はい」
「とりあえずここまで来ました。後は、我々に任せて、少し東京を離れられませんか?」
「え?赤井さん……」
「あなたの血液型がA型だというのが心配です」
「でも……」
「確かに同じ血液型は多い。それでも、あなたは、そのうつりの近くにいる事になる。それはとても危険です」
「それはそうですが……」
「あなたを5人目にしたくはないんです」
赤井は、声は小さいが強く言った。
赤井のその心からの真剣な言い方に、遥香は反論できなかった。
「わかりました。叔父が神戸にいます。しばらくそちらで泊めてもらいます」
「そうですか……。良かった……」
そう言った赤井の表情に、遥香はこの人を後悔させたくないと思った。
遥香は忍の車で家に送ってもらっていた。
教授と季世恵は先に送った。
遥香は目の前のライトの照らす景色を虚ろに見ていた。
「遥香」
「ん?」
遥香は忍を見た。
「俺達で何とかするから」
彼は前を向いたままそう言った。
「忍ちゃん……」
「ちゃん言うな」
忍は少し笑いながらちらっと遥香を見た。
「ありがと」
遥香は、自分が巻き込んだ忍に申し訳ないと思っていた。
「よろしくね」
でも、そう言うのが、彼に応える事だとも思った。
「ああ、任せとけ」
忍はさっきよりも笑顔になった。
もうすぐ家に着くというところで、あの場所に差し掛かった。
母の首が見つかった家。
「忍ちゃん、ちょっと停めて」
「え?ああ……」
忍はライトの中に見えた家を見て、その手前で、車を端に寄せて停めた。
「ちょっと待ってて」
「わかった」
家の前の街灯で真っ暗ではないので、忍は車のライトを消した。
遥香は家の前の花が供えられているところでしゃがむと、手を合わせた。
母への挨拶が済むと立ち上がって、しばらくその花を見つめていた。
すると、空気が重くなり、あの肌がざわつく感覚がきた。
目の端に赤い靴を履いた女の子の足が見えた。
隣を見ると、あの女の子が白いボールを持って立っていた。
「え?」
遥香はこの子を初めて感じたのかと思った。
でも、違った。
家の方からだった。
女の子もじっと家のドアを見つめていた。
ドアがゆっくりと開いた。
その奥は真っ暗で何も見えない。
でも、遥香には何かがいるのがわかった。
遥香は車の方を見た。
忍も霊感が少しある。
ところが、忍は頭をがくっと下げていた。
「気絶してる……」
遥香はまた家の中を見た。
ぼんやりと何かが見え始めた。
それは二つの顔だった。
一人は、
「お母さん……」
もう一人は、
「柳、静香さん?」
母の身体になった人だった。
身体の部分は暗闇に埋もれて、はっきりと見えなかった。
二人の顔はぎりぎり見える位置で止まって、家の中からこっちを見ていた。
女の子を見ると、ただそれを見つめていた。
母が何かを言った。
その口の動きは、実家で見た時と同じ様にうごいた。
「……が、う、つ、り……」
遥香の母は、確かにそう言った。
何かがうつりだと言った様だった。
その後は分からなかった。
すると、柳静香が、こちらへすーっと近付いてきた。
歩いている様ではなく、ただ、見えている顔だけが近付いてきた。
玄関に差し込む街灯の明かりに、その身体が現れそうになったその時、
「だめ!」
女の子が言った。
そして、何か念じる様な表情をした。
すると、甲高い悲鳴の様なものが家の中から聴こえてきて、遥香はその嫌な音に思わず耳を塞いだ。
見ると、目の前で家が激しく揺れていた。
「やめて!」
遥香が耳を塞ぎながら叫んだ。
その声で、女の子が表情を緩めた。
家の揺れは止まった。
そして、二人の顔は消えていた。
「あの時の洞窟が壊れたのとか、やっぱりあなただったの?」
女の子は遥香を見たが、何も言わなかった。
そして、すぐに透けるように消えた。
遥香がもう一度家を見ると、玄関のドアは閉まっていた。
周りを見回しても、ここに来た時の静寂の中だった。
「今のは、現実だったの?」
その静寂の中で、彼女は呟いた。
家があれだけ激しく揺れていたのに、近所の家からは、誰も出てこなかった。
遥香は車の方に走って行った。
「忍ちゃん!忍ちゃん!」
運転席のドアを開けると、忍を揺らした。
「あ、俺……」
忍が気が付いた。
「遥香……」
「何があったの?」
「いや、分からない。家の前で手を合わせているお前を見ていたら急に意識が遠くなった」
「大丈夫?」
「ああ、もう平気。何ともないよ」
「良かった……」
遥香が忍の肩に頭を付けた。
「ごめん……」
「ううん」
遥香は彼の腕に頭を付けたまま、軽く首を振った。
忍は、気を取り直すと、遥香を家まで送った。
● 山本家
その夜。
遥香はお風呂の湯船にほとんど口まで浸かって考え込んでいた。
あの女の子の霊は、何をしようとしているのだろう?
遥香はその事を考えていた。
あの子は誰にも憑いたりしないで、自由に動いている。
そして、藤見町のうつり塚の時も、今日も、あの子は霊が黄泉の国の様なところからこちら側に出てくるのを防いでいる、そんな風に見える。
そして、あの霊力。
ただ、漠然と思っていたが、本当に、慈澄の封印が失敗した時は、あの子の力がうつりを防ぐ力になるかもしれない。
もしかしたら、滅ぼす力にさえなるかもしれない。
それが、段々と唯一の方法ではないかと、思い始めていた。
そんなあの子に会えたり話せたりするのが、今のところ、自分だけだった。
そのためには、今日みたいな会えるチャンスを逃してはいけないと思った。
「だめだ……。ここを離れる訳にはいかない」
遥香はそう呟くと、湯船に少し沈んだ。
さらに、母が言おうとしたこと。
何かがうつり……
うつりにとって、不都合な事を伝えようとしているはずだった。
「お母さん、何を伝えたかったんだろう?」
遥香は、首を軽く振りながら、湯船から上がった。
● 世田谷慶成会病院
「じゃあ、ちょっと行ってきます」
「うん、よろしく」
看護師の田島理恵は、夜中の巡回のため先輩の三村弘美に声を掛けると、後ろで縛った髪を整えながらナースステーションを出た。
ここ、世田谷慶成会病院は、世田谷区のほぼ真ん中に有る区内で一番大きな総合病院で、12階建ての建物だった。
その6階から8階までが理恵が担当する内科病棟だった。
ほぼ真っ暗な廊下を懐中電灯の明かりで照らしながら、それぞれの部屋を見て回った。
彼女は6階の見回りを終えて、7階へ階段を上がった。
階段室は明かりが点いている。
7階へのドアを開けると、目の前には真っ暗な廊下があった。
その廊下に踏み出す時があまり好きではなかった。
先輩達は結構そういうものを見ていたから、理恵は霊感がなくてよかったと思っていた。
廊下に出て左右を見た。
非常口の表示灯くらいで、ほぼ真っ暗で静かな廊下が続いている。
「さて、さっさと回ろうっと」
理恵は、左側の部屋から回り始めた。
そして、一部屋目を確認して、廊下に出てきた時だった。
目の前に髪の長い女性がいた。
「ひっ!」
理恵は悲鳴を上げかけて、すぐに口を押さえた。
「び、びっくりした……あの、どなたですか?」
その女性の格好を見ようと視線を下に下げると、声にならない悲鳴を上げた。
身体が無かった。
目の前に黒い靄がかかった様な顔だけが浮かんで理恵を虚ろに見ていた。
その直後、暗い廊下に、ごとっという音が響いた。
「おかしいなぁ。ちょっと見てくるね」
ナースステーションの三村弘美は、理恵が戻って来ないので、他の看護師にそう言うと、仕方なく捜しに行った。
「田島さん?」
小さな声で、声を掛けながら各部屋を回ってみたが、6階にはいなかった。
「上か……」
階段を登って7階へのドアを開けた。
「あ……」
暗がりの中、階段室の明かりにぼんやり照らされて、髪の長い女性が倒れているのが見えた。
目の前の壁に背中をもたれる様に倒れていた。
階段室からの光が自分に重なり陰となって、よく見えなかった。
懐中電灯の明かりを向けると、その格好は看護師だった。
「え、ちょっと!田島さんなの!?」
彼女は駆け寄ると、しゃがんでその女性の顔を見た。
少し下を向いているその顔は理恵ではなかった。
「え?誰?」
見た事がない看護師だった。
でも、胸元の名札は『田島』となっていた。
一瞬訳が分からず怯んだが、
「どうしました?大丈夫ですか?」
彼女は状況を把握しようとした。
口元に顔を寄せたが、息をしていない。
脈はあるかと、その女性の首に手を当てた。
当てた瞬間だった。
「え?」
何もない首に赤い線がすーっと描かれた。
「なに、これ」
そして、首がズレ始めた。
「ひっ!」
弘美は、後ろに倒れかけてお尻をついて固まった。
ごとっ。
首が落ちた。
そして、それが、自分の方に転がってきた。
弘美は、目を見開いた形相で声にならない悲鳴を上げながら後ずさった。
背中が壁に当たった。
首がまだ転がって来る。
身体中が総毛立ったが、その身体に触れる直前で首が止まった。
弘美は身体を強張らせたままで、その首を見ていた。
目が合っていたが、その視線を外すことはできなかった。
そして、目の前で、その首がどす黒く変色し始めた。
その直後、病院中に悲鳴が響き渡った。
「5人目か……」
翌日の早朝、赤井は署内で係長の大山から聞いて呟いた。
だが、またその被害は世田谷区内に戻ってきた。
赤井はすぐに永凛寺の住職と教授に連絡した。
「わかりました」
住職がそう言いながら慈空を見ると、彼は頷いた。
慈空達はすぐに動いた。
南東部の宗律寺に慈延と慈海が行き、永凛寺で慈空が結界を張る儀式を行った。
遥香達が永凛寺に駆けつけた時には、既に元の場所にお札が貼られていた。
「後は、次の被害が出なければ、この結界の中で動きを止められているということです」
「すぐに、分かることではないですね」
遥香が言った。
「ええ。でも、私達で結界の中を隈なく探します。近くにいれば、このお札が教えてくれますので、その時は更に結界を狭めて、その上でうつり自体の退治を行いますから」
「よろしくお願いします」
遥香は頭を下げた。
うつりが世田谷区内に戻って来たことで、鶴円寺と道空寺の封印がそのまま使えてお札が2枚余っていた。
うつりの居場所が分かれば、さらに結界を狭めることができるということだった。
「でも、何でまた戻って来たんだろう?」
遥香はその動きが気になった。
まあ、確かに江戸時代からかなりの年月を掛けて、少しずつ南下して来ている。
もしかしたら、これまでも被害が出た後、その地域で留まりながらの南下だったのかもしれない。
本当はもっと被害が出ているのかもしれない。
遥香はそう思った。
とりあえず、後は次の被害が出ない事を願いつつ、慈空達に任せるしかなかった。
それはそうと、今日は赤井が来ていなくて良かったと思った。
きっと、自分が神戸に行ったと思っていることだろう。
まだ、こちらで関わっていると知れば、きっと、止められる。
それだけでなく、彼を悲しませてしまう。
遥香はそう思っていた。
永凛寺を出る時に遥香は周りを見回したが、あの女の子はいなかった。
彼女にできるのは、あの子に会って、うつりを何とかしてもらう事だった。